太田川の伝説B 船場に来た南朝の皇子
  安芸太田町郷土史研究会会長 西藤義邦
2008年 9月 第89号

 
南北朝の伝説

 今回のお話は14世紀、鎌倉幕府が亡び、後醍醐天皇が伯耆の船上山から京に戻って、天皇親政の改革を行った頃のこと、「南北朝の動乱」伝説で知られる安芸太田町の船場が舞台です。

 船場は太田川の中流沿い左岸にあり、可部線の旧安野駅周辺に戸数34戸、対岸は広島市安佐北区という町境の小集落です。古来広島に至る「山県郡筋小往還」の太田川横渡し点にあたり、近世以降は川船の浜で賑わう交通の要衝でした。

 そこへ降って湧いたように中世、南北朝時代の伝説が語られるのです。

 即ち「後醍醐天皇の第7皇子である懐良親王(かねながしんのう)と旗下がここに陣をとった」というもの。目的は1336年、新田義貞に敗れて西走した足利尊氏が、九州支配を固めて、東上するのをここで阻止することにあったといいます。

 伝説も通説としてはこれが全てなのですが、もちろん異説があります。

 
落ち武者伝説か?

 その伝説の一つは「むかし南朝を降った28代の彦良親王という偉い人が、伴の武将8人を連れてこの地に落のびてきた」とあり、昭和の末期に対岸の追崎で採拾された話です。続いて「この地は山の上で陽当たりが良く、飲水も有り、四方に見通しがきくため、身を隠すには最適の場所であった。そこで砦をつくり、定住するようになった。何時の頃か、人々はこの地を「長者原」と、呼ぶようになった。その後ある時期に、この長者原の人々は夫々思い思いの場所に降りていったという。そのうち、一人は追崎に、一人は来見船場に、一人は津伏に、一人は鈴張に、それぞれ降りていって定住したと伝えられている」と、旧臣が近郷の草分けになったことで終わっています。

 しかし、これではまるで落ち武者伝説です。

 
地名は語る

 それに「南朝を降った28代の彦良親王」は意味不明です。そこで、江戸時代の穴村の地誌を尋ねてみると長者ヶ原は「朝日長者、夕日長者とて2軒住居いたし候由」とあるだけで伝説の影もありません。

 いったい皇子が軍勢を率いる「南朝伝説」はいつ頃生まれた のでしょうか。もともと地元に関係の古文書はないとされ、船場には由緒ありげな地名が多いということと、若干の遺跡だけが、伝説を生む根拠でした。

 その地名をご紹介すると、まず「長者原」が居地や段・墓地などを遺した船場山の頂上(標高375m)付近。その麓に拡がるのが「一位原」、その一隅に古い五輪塔群。その沖の太田川を「兵衛の瀬」と呼んでいる、といった具合です。

 また来見の下には「矢力谷」や「鎧力嶽」もあって、それらしい地名が残ります。

 
水戸からの調査団

 同じ穴地区の田野原に鎌倉時代に遡るという古跡がありますが、やはり船場の一味が拠った砦跡といいます。こうした南朝の皇子が船場に来たという伝説自体は、太田川上流地方にまれに見るスケールの大きい歴史として村人には大きな誇りであり、地名伝説では片付けられないようです。

 というのも、昭和11年ごろ、役場の主導で水戸(市教育会?)から「南朝忠臣の史蹟」として調査団が来村しているのです。南朝正統論による当時の時代精神を抜きには考えられないことですが、調査の成果があったのか、なかったのか、その後の「大東亜戦争」の始末を警戒するあまり、調査報告書も資料も一切が行方不明です。

 村内の旧家から出たという、後醍醐天皇が隠岐の配所を脱して拠った「船上山」へ馳参の家伝や、「南朝下書」なる動員の史料などは、当時どう評価し位置づけられたのか、分かりませんが、伝説が地名に関連して生まれたということだけではないのかも知れません。



 
なぜ懐良親王なのか

 筆者の推察ですが、この時下した調査団の結論が「後醍醐天皇の第7皇子である懐良親王と旗下が船場に屯した」という通説として残されたとも考えられます。足利尊氏の東上を阻止という目的も、ここで立てられた理由づけだったかも知れません。尊氏が宮嶋、尾道と海路を選んだのはとっくに史実でしたから…。それにしても懐良親王はこの時7歳、後醍醐天皇の皇子ですが7番目というのも不確かで、後に征西大将軍として、九州で活躍しているものの、中国筋での動きは明らかでありません。

 そこで、はるばる船場に来た皇子を想定するなら、尊氏東上の十数年後の観応2年ごろになりますが、安芸国内の南朝の拠点造りに送り込まれた常陸親王(満良親王)がいます。彼はしきりに令旨を出して芸備地方の諸豪族を味方に誘い、積極的な政治工作を展開していますから、懐良親王よりは可能性はあったでしょう。懐良親王説には疑問が残ります。

 
船場陣営の月

 そうなると、伝説の年月は1350年代、足利尊氏と直義派の争った「観応の擾乱」と呼ばれる時代でしょう。この頃は安芸国内は毛利氏初め根強い反幕府勢力の中にあり、太田地方も在地領主の多くが南朝方で、尊氏方に対する直冬方も加わり、入り乱れて拮抗します。

 ついでながら、現在の安芸太田町における「地名の初出」は、1352年の「津浪村地頭職の預け置き状」ですが、それは守護の武田氏が、南朝方の梶原五郎右衛門尉の地頭職を取り上げて、幕府に従う熊谷直平に与えたもので、幕府側の軍勢催促の厳しさが伝わってきます。

 史実を想像でつなぐことが許されるなら、後醍醐天皇の皇子の誰かが、太田川の上流に分け入り、月の陣営に立つ姿があったかも知れず、歴史ロマンの香りあるところには必ず、「伝説」は生まれてくるように思われます。
 
当ホームページ上の情報・画像等を許可なく複製、転用、販売などの二次利用をすることを固く禁じます。