今回は、太田川の渕から光と共に現れた観音さんのお話をしましょう。
安芸太田町坪野の善福寺には、境内に一宇の観音堂があって、寺の前身と伝えています。中世は永世年間に禅宗で建立されたのですが、後に郷中の寺院は残らず真宗に転じたため、江戸中期の元文2年に真宗寺院として再出発し、お堂は廃頽を惜しんで境内堂として残されたのです。本尊が問題の自然石です。
話というのは、その観音堂の開基についての不思議な伝承で、実は筆者はこれについてはかなり事実に近いものを含んでいると信じているのです。
亀岩測に怪しき電光
筆者が子どもの頃、お堂には絵馬がかかっていて、鵜飼いが船から矛を携えて水中の光を睨んでいました。その光のまぶしかったこと、漆黒の中の神秘な印象が忘れられません。そういう時代の、以下に要約する「観音縁記」の写しというのを見たことがありますが、それには「永正3年3月18日 水青院 即覚」とあって、文字や文章からどうやら中世に触れた記憶があります。記述は宗教的体験の翌年らしい生々しさですし、人物の墓も現存するようです。なお、今は光りなき霊石の調査は行っていませんが、筒賀から坪野を経て穴村に至る一帯には、巨岩、奇石が少なくないことを付け加えておきます。
さて、そもそも当寺に観世音菩薩が鎮座した由来をたずねますと、三十三身の誓約にゆだねて光を亀石渕に宿して数年。明応の頃(15世紀末)電光(いなずま)のような光が亀岩渕の水底に輝き始めたことにあります。村人はわけが分からず、妖しいものの仕業とみて、この渕へは誰も近づかなくなりました。
霊石を揚げる鵜飼い
折から、村に山根勘解由という世捨て人があり、夏には鵜飼いを業としていました。さらに4、5年たった永正2(1505)年6月17日の夜、決心した彼はいよいよ篝火をあげて、鵜と共に亀岩測に入ろうとします。その時、水中の光が強くなり、鵜も怯えて後ずさりです。そこで、勘解由が矛をふるい、声を上げました。
「夜毎の光にみな恐れとるぞ、拙者は汝が素性を糾そうとて、今宵来たのだ。汝は霊か、妖か、はた名王か、もし妖怪なら怨みを語れ、もし霊魂なら拙者に委ねよ!」
勘解由はそう言うと、矛を持って光の辺りを探りました。すると、霊とも妖ともつかないものが、スッと矛に乗ってきました。揚げるとその軽いこと、真綿でもわずかばかりという感じです。そのまま渕のほとりに上げておいて、落ち着いてよく見ると、どうやら七尺有余の霊石です。これが立っていると人の姿に見えるかも知れません。
観音、夢枕に立つ
しかし、勘解由は元来、しみったれだから、仏や信仰といったことには縁がありません。それで、この霊石を川辺に捨て置いたまま我が家に帰ってしまいます。
帰るとすぐ横になったが、はて、今宵に限ってどうしても眠れない。ようやく寅の刻に至って夢かうつつか、観音様が現れたのです。そして次のように告げました。
「われは観世音菩薩である。衆生を救わんがために来た。願わくば塔を造り我を安置せよ。決して怪しいものの仕業と疑ってはならん」
勘解由は大いに驚いて、これはただごとではない。自分が日ごろ心得違いでもって佛法のことを考えない。このままでは未来において無限地獄に堕ちる事を哀しみ、我を救いに現れたまふことのありがたやと、観音の冥加を深く感じたのです。
明くれば18日、夜明けと共に亀岩渕の上りに行って、尊像の前に跪いて、回心懺悔し恭敬尊重して前後不覚になって涙にむせんでおりました。
即覚は鵜飼いの僧形か
しばらくして、背を向ければ霊石が蝶のように勘解由の背に負われたので、すぐに担い奉り、近くの大木の根元に安置して、ぜひお堂を建立したいものと思案していました。
そこへ、折りよく洪水があって、いずくともなく五抱えもある大杉が亀岩の渕に留まったのです。これも観音の計らい給うことと、斧を持ってその木を伐ると、思い通りに割れます。こうして、7月18日までに30日かかって妙法蓮華の経石を敷き、一本の杉をもって3間4面の草堂を建立しました。宗旨は禅宗で藤井山水青院善福寺と名乗りました。
諸人は霊験のあらたかなるを聞き伝え、日を追って盛んに群れ集うようになりました。実に不思議なこともあるものヨと口にしない者はありませんでした。
このはなしが事実を写しているとの根拠として、霊石に次いで即覚の存在を上げる人があります。筆者もその一人ですが、即覚は初代の堂守であったと言いますから、勘解由が得度した姿ではないかと考えたのです。彼の観音佛への帰依には、誠に素直なものがありましたから…
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