写真・絵画で甦る太田川 

写真・絵画で甦る太田川 
(90)明光寺・秘宝の七輪



 広島駅から芸備線で三次方面に向かうと、六つ目の駅が中深川。この駅のある集落は中郷と言い、白木町の方から流れて来る三篠川の左岸になる。中郷から川を渡つた右岸を院内と言う。つまり寺院を中心とした集落という地名になっていて、中世からの古い歴史をもつ明光寺がある。

 この明光寺には不思議な七輪が秘宝として伝えられている。

 七輪といえば、昭和三十年代迄は我々の家庭の台所で専ら煮炊きの用をしていた道具だが、あの七輪とは全く趣きが異なる。全体が異様なのだが、特に下から見ると獅子の頭が克明に彫られていて、その頭から続いた三頭の獅子の前身で上部を支えている(上の写真)。筆者がこれを見せて頂いたのは三十年余り前だったが、その時の強烈な印象は今もはっきり残っている。ド迫力であった。

 これは一般家庭の七輪のように煮炊きに使ったものではなく、貴賓席に置かれて茶の湯の道具として使われたものであろう。七輪の箱の底には「箱書き」がある。

 寳物
 永禄十年毛利公手作
 茶器用ノ七倫
 享保九年辰三月吉日拝領ス
 明治三拾六年三月三一日(以下文字剥洛)調へ替へタリ
 島根県邑智郡囗那村字長田
  藤井寿一作

 この箱書きによれば、毛利元就が作ったものであること。その次の「拝領ス」というのは、誰から拝領したのか不明である。享保九年はすでに浅野の時代であるから浅野氏からの拝領なのか、最初の三行は不明と言うべきか。箱は作り替えたという。藤井寿一という人物と明光寺との関係は分からない。

 ◇明光寺の歴史

 牛尾山正明院明光寺というが、その歴史は波乱に満ちたものであった。昭和13年、時の住職牛尾頼信の書いた寺の由緒からその概略を述べると、

一、国造久島氏により伽藍創立 天長八年(831)、薬師寺と号ス(真言宗)。
二、その後次第に荒廃したが、大永三年(1523)、時の領主早副能登守の援助で堂宇を修理する。
三、永禄年間(1550〜)、毛利元就の庇護を受け、薬師堂を復興。
四、福島正則により慶長六年(1601)寺領没収される。
五、寛文元年(1661)浄土真宗に改宗、本尊を阿弥陀如来とし、今迄の薬師如来を祖先仏とする。浅野領主の許可で修繕費用は郡割りとなる。

明治以後も起伏があるが、紙面の都合で略す。薬師堂及び薬師如来像は今も寺内にあり、福王寺と並び拝された真言宗の時代を語っている。

 (幸田)
 
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