天然鮎は酷しい流れを遡上して一定地に定着するようになると、その地の特性を表すような魚体に成長する。魚体を見れば、それがどこにいたかが分るという。鮎の中の鮎と言われるものを近世の書の中から拾ってみると、「はげの入道」「香草の鼻曲がり」「須川の小次郎」が特に有名。はげは金田村(口和村)。香草の−は高暮村(高野町)。小次郎は濁川村(庄原市)で、何れも西城川の鮎である。その他著名な鮎として挙げられているのは、「土師村のもの佳なり」。「日下町鳴瀬の産、大にして風味尤も佳なり」などの記載がある。土師村は可愛川、現在土師ダム)。日下(しげ)は三次の川下、江の川である。
1630年、広島藩は鮎を将軍家献上品と決め、藩内の各郡に毎年の数量を割り当てた。山県郡には1500尾、他に子うるか、にがうるか、あり次第。という指令であった。しかし1635年に藩内どこも鮎の成育不良で、各郡共規定の数が得られなかった。藩では美濃産の塩鮎を入れて不足分を補う処理をしたが、これに懲りて以後、城下に近い太田川の中・下流に藩営簗を設置し、毎年の鮎の数を確保することに力を入れた。
この御用簗の設置場所は、毛木村、下四日市村、下深川村の三力所で、1702年毛木。1714年下四日市、1726年下深川と以後もほぼ12年毎に移動して設営した。この移動の理由は、毎年の修理に多量の木材・竹材・工賃がかかるのを分担させる意味だろうか。とにかくこの御用簗の設置で献上鮎の確保はできるようにはなったが、御用簗より上流の民営漁業は酷しい制限を受け、下村密漁事件に代表されるような地域民への抑圧となった。
御用簗が廃止されたのは1863年、高宮郡役所より廃止申し渡し、による。
御用簗の全景を描いた岡暇山の絵は1797年の下四日市村河戸の位置であり、川の両岸に接する堰を設けた大きな構造物であることが分る。
この簗ができる以前から太田川には各地に民営の簗があり、その規模に相当するだけの運上銀を毎年納めて漁獲に取り組んでいた。運上銀の額は大きい簗で50匁、これは鮎10貫分に相当する額である。(約30尾の鮎で1貫)
ここでついでにその中の一つである香草簗について、加計文書の記録を拾ってみると、1804年には6月〜7月の18日間に延べ人数1002人の労働で完成している。この地の大家である隅屋・新屋・田屋・上野屋の四家がそれぞれ大を集めて労働を負担し、魚による収入もその負担額の比によって分けるのが原則であった。魚が落ちる程の出水が何回あるかはその年の天候に任せるしかないがこの年は7月12日から8月26日(旧暦)までに6回あり、〆て389貫、うち8月26日は1日で257貫あった。収入は1945匁で、運上銀の50匁は楽に支払えた。簗に落ちる魚は鮎の他にいろいろあることは勿論だが、それにしても大量の天然資源があったことに驚く。現在の川からは想像出来難いものである。
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