写真・絵画で甦る太田川 

写真・絵画で甦る太田川 
(88)福王寺・不動明王


 もう久しい以前になるが、筆者は演劇脚本を書いていた時期があり、その仕事をする際に時々、書斎として(?)福王寺を使わせていただいていた。街の傍にあり、小さな山でありながら、夜がふければ、樹木の立ち方、自然の取り巻きなどが他の山とは全く違うことを感じる。

 寺の建っているのは殆ど山頂であり、本堂と阿弥陀堂とを隔てて寺僧の暮らす庫裏は回廊で繋かっている。庫裏は後にかなりの集団が泊まり込める大きな畳敷きが造られ、集団が二三泊の会合をしたり、大学の部活などにも使われていた。筆者が泊めて頂く時は、他に誰も宿泊者のいないことを確かめ、誰もいない部屋で夜を過ごさせて頂く。初めは、回廊でと頼んだが、寒いから風邪をひいては困るからと言われ、阿弥陀堂の板の間で寝たこともあったが、たいていは若い寺僧の寝起きする回廊途中の三畳間の小部屋を借りていた。夕食には般若湯を頂いても良いことになっていたので、ここへ来る時はいつも一升瓶を担いで登ることを習わしとしていた。

 そもそも、この寺の建立に関しては不明な点が多い。広島県内の寺院の多くは、近世に入って浄土真宗に変わっているが、ここは宗派は元の侭の真言宗。しかし建物の方は過去に幾度も火災に辿い、いつ再建されたかなどの記録はない。それに最も不思議なのが立木仏である。

 立木仏とは何か・・立木の上部を伐り、残った立木をその侭彫って造った仏像で、この木彫仏師としては円空の名が広く知られている。しかし実際にどれだけの立木仏があるのかは分らない。福王寺の場合も近年になって・・「らしい」・・と言われて県の重要文化財の指定を受けた。となると、福王寺の場合は、その仏像が金堂の中に造られたというよりも、仏像を覆って金堂が建てられた・・というべきだろうか?

 1978年9月3日‥‥、−夕立ち!雷鳴!落雷!これはどうにうにも逃げられない災害だった。焼け始めた金堂。火は立木仏の不動明王を襲った。この日はある市内の高校のスポーツクラブが合宿をしていたので、みんなでご本尊を運び出そうと懸命になった。しかし大きな根を張った立木を引き抜くことは出来なくて、全てが焼失した。この時の報道をめぐって「危険を恐れず仏像を守ろうと、よく挑戦した」という褒め意見に対して「高校生なのに立木仏であることを知らなかったのだろう」という批判的な声も一部に出ていた。

 何にしても、この時の高校生たちが立木仏『不動明王』を最後に見た重要文化財的な証言者となったわけである。

 (幸田)
 
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