写真・絵画で甦る太田川 

写真・絵画で甦る太田川 
(85)古市と熊野 麻による細−く 強ーい関係


 広島市郷土資料館では年報として広島に関わる歴史的文化遺産の調査・収集を行い、記録をまとめて発行している。その初期、当時修道大学の東皓傳教授が中心となり、その依頼を受けて筆者も1983年の「川船」以後「麻苧」「下駄」「養蚕」「製紙」などに関する聞きとり調査に歩き回っていた。「麻苧の製造と民俗」の時には煮扱ぎから製糸までが村ごと麻業であった古市が舞台であり、その古市へ原料の麻が何処で栽培されてアラソにされ、どのような行程で古市に入ったか。古市ではどのような方法で製品化されて何処へ出て行ったか。などを調査した。当時の太田川流域では殆どの所で大麻の栽培を行っており、収穫した後で蒸してアラソにしたものの多くは船で川内の問屋の斎へ運ばれ、斎から古市へ運ばれてコギソにされ、さらに地元の糸屋の手で糸にして出された。

 麻産業が下火になるのはまず戦後、麻薬の取り締まり目的から大麻の栽培に圧力がかかり、その後昭和30年代半ばにはナイロンやビニロンなど化学繊維が普及、またラミーと呼ばれる苧の変種から加工した糸が人変丈夫なことから古市の麻糸の販路は圧迫された。

 さてそこで熊野のことである。熊野といえば筆の産地として知られているが、筆を作るのには順序として毛を揃えて根元を麻糸で括る。(太い筆を括るのは麻糸、細筆の場合は糸にする前のウミソを使った)。そういう需要から古市と熊野とは繋かっていたのだが、ラミーが出回るようになった昭和49年からは安価で丈夫なラミーでククリをするようになり、古市との関係はなくなってしまった。ところが昭和59年、まだ熊野に古市麻を使っている筆職人がいるという情報を掴み、早速熊野の出来庭という所を訪れた。出来庭では夫々の家庭の中で主に女性の手によって筆作りを行っていたが、小椋エキノさんの家では専ら小筆(真書・面想・点付)を作っていた。エキノさんの話しでは、うちでも根元のククリには今はラミーを使っているが、その先にもう一つウミソでククリをする。そんなことをするのはうちだけである。どうしてそんな手間のかかることをするのかと言えば、ラミーは確かに丈夫だけれど、ウミソで括っだのとは使ってみると微妙な違いがあって、真書(しんかけ)を使う書の専門家などは圧倒的にウミソの方を高く評価する。そういう違いが判る使い手の人がいる限りは、うちでもずっとウミソのククリを続けたいのだが、でも肝心のウミソがもう残っていない。当時は出来庭の木村店が古市から仕入れて、ここで筆仕事をしていた20軒くらいの職人はそこを通じてまとめ買いしていた。そのウミソの残りが1つ残っているだけ。もうこれでウミソとはお別れだと思うと淋しい・・

 違いが判る人に使い続けられた熊野筆と、それを通して結ばれた古市との繋がりがなくなったのは、ほんと淋しい。   (幸田)
 
 
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