川の「カニ」のことを太田川流域では「ガニ」と濁音で呼んでいるようなので、ここでも「が二」にさせてもらう。戦後も暫くの間はガニ漁は盛んで、6メートル程の網の下部に竹を編んだ「モジ」をつけた「が二網漁」をやっていた。
ガニが美味いのは三月四月の間で、子を孕んだ雌が好い。川底が小さい礫の所に夕方に漬けておいて翌朝上げるのが普通だが、水が多い時には昼でもよく捕れた。1時間でモジに30〜40尾も入ることもあったという。野冠で漁業をしていた竹内さんの家では竹のモジでなく、特製の金網(直径45、長さ60センチ)の籠を付けていた。大漁の時はそれに3貫目も入ったこともあったと言う。捕れたガニは、分けてほしいと言って来る近所の人たちに売るくらいで、アユのように問屋や市場へ持って行くことはなかったが、久地では鹿之巣にはガニ漁を盛んにやっていた人がいて、可部駅前の問屋に運んでいた。
以上は野冠の竹内稔さん(明治43年生)から昭和56年に聞いた話で、上の写真もその時に撮影したものである。
これに対して支流の三田川(三篠川)筋のガニ漁は大道昌さんが「白木随筆」の第44号(昭和63年版)に『轟瀬の毛ガニ漁』の表題で書いているので次に紹介しておく。
「以前は車窓から白木八景の。つ、轟瀬を眺めると、そこにはきまって岩の上に毛ガニ漁のモジが干してある光景が見られた。シーズンは3月〜4月初め頃、雨が降って水が濁った時は多く捕れる。そんな時は三日市の大だけでなく吉永、入野、鳥井原、須沢の辺からも丸網など持った大がやって来て、岩の間の流れに網を据えて、獲物が入るのを楽しんでいた。流れがあまり急でない轟橋の上手では右岸寄り、下の轟瀬では左岸がよく捕れた。美味い季節である春には、土色をした雌ガニを唐臼で搗き、団子を作って食べるのである。近所にも配った。夏になると脱皮するため、身が軟らかくて臭いので、ミソガニと言って敬遠していた。
昭和30年代中頃から力二の姿は見られなくなった。それは昭和32年頃から田んぼに草一本も生えさせない、画期的除草剤が登場した。この農薬PCPのせいではないか。田んぼにいたドジョウ、タニシ、カワシジミ、小魚類と次々に見られなくなった。PCPは問題となり、昭和37年頃から許可制となりさらに昭和48年から使用禁止になった。現在は、川の生物たちが再びもどって来る兆候にあるのだが・・」
さて、現在の川は・・ |