蛾の幼虫である蚕は春、越冬した卵から孵って桑の葉を食べて眠り、眠る時に脱皮し、これを約1ヶ月で4回繰り返して大きくなる。これを「4眠5令」というが、5令目に体長8〜9cmになったころ繭をつくり、2〜3日で完成させる。その後、繭の中で蛹になって7月下句〜9月にかけて蛾になり、繭に穴を開けて飛び出す。そして2〜3日中に交尾して産卵して死ぬ。これが自然界の蚕→蛾の一生である。蚕の作った繭から絹糸をとるのが養蚕→製糸産業だが、養蚕は蚕の餌になる桑の葉の成長に合わせて蚕を飼育しなければならない。
普通、養蚕は1年に3回、蚕に繭を作らせる。(「上蔟(じようぞく)」)春は5月下旬〜6月、夏は8月下句〜9月、秋は10月中句から11月の3回である。これが桑の葉の生産に合わせて飼育する最も合理的な組み合わせになる。丁度この時期に合わせて幼虫卵から孵化させ、蚕に繭を作ってもらうのである。風穴の中は1年中15〜6度の冷風が噴出しているから、卵は冬眠状態に保つことが出来る。産卵した卵は厚手の紙の上に仕込んであり、この「種紙」を木枠に挟んで大量に保存した。風穴から外界に持ち出せば卵は孵化する。蛾の卵を種紙に仕込む作業所も近くにあったという。貯蔵庫は石垣の壁の中にレンガ造りで幅2・10m、奥行き4m、高さは1・7mの広さ。ここに当時の広島県西部(山県郡、佐伯郡)一帯の養蚕農家の蚕を補給する種紙が保存されていたという。
岩見さん宅では父が養蚕の指導員をしており、約1hの桑畑があった。春から秋までは、家の中は台所と寝間以外は蚕の棚で一杯になった。特に、5令目に入って最後の1週間は戦争のよう、あけてもくれても桑の葉とり、蚕の糞掃除だった。岩見さんも小学校4年生ごろから手伝ったという。来見地区は太田川の河畔の集落だが、川に流れる水は耕地よりずっと下にあり、水が取れないから水田は殆どなく畑は麻と桑畑だけだった。
当時は16戸あったが、隣の集落が「船場」で、川船の港だったので、半分が商人だった。鍛冶屋が3軒。これは、川向こうの「追崎(オッサキ)」に船大工が5軒あったので、船釘を作った。ほかに精米屋、下流の広島から肥料を仕入れ販売する家、薪問屋など、皆こういう仕事を持ちながら、養蚕は全部の家でやっていた。
大体1年の収入の半分は養蚕で稼ぐ形だった。月給取りが1年に360円ぐらいで、養蚕は170〜180円ぐらいの収人になった。
その養蚕も終戦後は食糧増産で桑畑がサツマイモ畑に変わって衰退していった。
風穴の蚕種紙貯蔵も岩見さんが軍隊から帰った時にはもうなかったという。
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