写真・絵画で甦る太田川 

写真・絵画で甦る太田川 
(79)1900年前の集落

 

 広島市安佐南区の毘沙門天を祀る権現山の山裾に住宅団地ができて、毘沙門台の地名になった。昭和57年に住宅地をさらに拡張するため山の一部を削り取ることとなり、そこにあると言われてきた古代遺跡の学術調査が広島市教委の社会教育課文化財係によって実施された。上の写真はその時のものである。同課では12月に説明会を開いた。その発表によれば遺跡は約1900年前の弥生時代前期から古墳時代初頭にかけて、約200年ほどの幅があるが、この丘陵に70軒の竪穴住居の跡と180基の土坑があった。他に箱式石棺、幼児用の土器棺、土坑墓もあり、土坑の中から土器、カキやハマグリなどの海産の貝類が発見された。(撮影は幸田)

 さてここで注目される事は、写真で見るようにこの場所は尾根で標高180〜160メートルの場所であることだ。向こうに見える山は左が武田山(410m)、その右は火山(ひやま488m)。左下には遥かに広島市街から似の島までも見える。弥生時代は水田稲作を始めたため、住居は低湿地であることが一般の通念であり、こうした高地性集落はごく一部に限られているという。当時のここの住人たちはどのような暮らしをしていたのだろうか。カキやハマグリは海まで取りに行っていたのか。太田川の流れは現在よりも西であり、水位も今より高かったにしても、この山の下で取れていたとは思えない。それとも交易?

 さらにこの尾根より東側の標高180〜110mの丘陵の調査がその後も同文化財係が行い、此所でも70軒の住居跡と180基の土坑が発見された。弥生時代の高地性集落は他にも瀬戸内の一部に発見されてはいるか、それらに比べて規模が大きいという。(『毘沙門台東遺跡発掘調査報告』1990年3月。広島市の文化財48集より)

 この遺跡よりさらに東側で標高130mの丘陵(宇那木山古墳)からは5世紀の中国からの舶載鏡(画文帯神獣鏡)が出土しているし、太田川を隔てた標高110mの丘陵(中小田古墳)からは4世紀の銅鏡(三角縁神獣鏡)が発掘されていて周辺の歴史は想像をかき立てるものがある。
 
 
(幸田光温) 
 
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