今までに筆者が特に盛んに聞き歩きをした1980〜1995年の間は船乗りや筏乗り経験者もまだかなりいて、船乗りでは50数人の話をメモしている。ここに取り出した船場の井原儀市さんは船乗り気質の溢れた人と言ってよいのではないかと思う。
船場は旧穴村の一集落で50軒あり、井原家は祖父の代から船に乗っていた。ここでは加計のように一部の問屋の荷を広島まで運ぶという形態ではなく、自分で生産者と交渉して薪や木炭を買い、車運送人と交渉してそれを澄合まで荷車で運ばせ、そこから船に積んで広島へ売りに行く、という営業であった。薪が7に炭が3くらいの割合だったという。
儀市さんは14歳の年から父の利市について船乗り修行を開始。やがて自転車を買って自分で空谷の集落を回って買い物をしたり、父親に代わって船を取り仕切ったりするようになった。
大正2年に兵役に。2年後に戻って間もなくフィリピンへ出稼ぎに行く。ダバオでマニラ麻の栽培をやった。当時のダバオには3万人の日本人の労働者がいたという。この仕事は8年間やって大正12年に帰国。それから再び船に乗った。
船の一行程は次のようになる。水の多い日は広島まで3時間。普通は4〜5時間。まず寺町裏で商人たちとで品物の値段交渉をした後に指定の場所に荷物を降ろし、現金を受け取り、牛田まで上って船宿に泊まる。翌日深夜、1時か2時には出発、昼頃には船場に帰着。その日のうちに澄合まで上って次の荷物を積み、船場に帰って寝る。夏なら広島で仕事が済んで荒下まで上って宿に泊まるので、翌朝は明るくなってから出発すれば帰れた。で、ずいぶん楽だった。
どちらにしても1回の往復に2日かかるわけだが、その行程を休みなく繰り返すのは辛いので、広島へ出るのは月に10回くらいで、純益は1回が4〜5円というところだった。でも当時は300円もあれば、1年間の所帯が過ごせた時代だから・・そんな話を納屋の前に筵を敷いてササゲの殻をとる作業をしながら聞かせてくれた儀市さん(写真)。この年88歳。元気な仕事人間だった・・・
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