『芸備孝義伝』は近世の広島藩が藩の事業として編集、出版したものと言われている。当時の儒学思想に従って、仕える主人や親に忠節を尽くした町人、農民に褒美を与え表彰した事跡の記録集と言うべきものである。初版は頼春水・頼杏坪の編集で岡岷山が絵を描き1801年に出版。第二集は太田午庵の絵で1806年に出版。第三集は浅野斉賢・加藤棕盧に編者が代わり、(*)山野山舜峰斎が描いて1843年に、さらに翌年に拾遺集が同じスタッフで作られた。各集とも安芸・備後の郡別になっており、すべてを合わせると855人の人物が出てくる。百姓12人とか兄弟4人とかあるだけで名前のないものもあるし、絵の方も果たして実景を見て描いたものか?疑念を抱かせるものもないでもない。
本誌でも今までに第三集の中の「白島の渡し」と拾遺集の「八木用水を掘る」とを紹介したことがあった。今回は第二集の中の「空鞘の渡し」を取り出してみよう。
『空鞘町木屋久三郎下人六兵衛』で、内容を要約すると、六兵衛は高田郡小越村の農家に生まれた。10歳の時に木屋久三郎家に入り仕えるようになった。木屋では渡し守をする一方で畠も作っており、六兵衛もその主人によく仕え、やがて自分で渡し守をして、殊に老人や幼い子の安全に心がけ、一日の川での仕事の後は夜でも月夜には畑仕事もして主人を援けた。主人に仕えること60年目の寛政五年(1793)に米7俵を褒美として賜ったという意味の記述である。
上の絵がその挿絵である。第三集の山野山舜峰斎の白島渡しの絵は渡し舟が大きく描かれて、乗っている人、漕いでいる人、さらに操船具までわかる絵であるのに比べると、太田午庵のこの絵は主題の捉え方が漠然としているとも言える。右の二艘の船は莚帆を上げて遡上する荷船。中央が渡し舟。左の小さい船は漁をしている船であろうか?対岸に見える石垣と石垣の間の雁木はこの渡しの発着場で木立と竹林との間に見える屋根が空鞘神社であろう。左端に矢倉がある。当時の左岸側は太田川に沿って城の大手が巡らされ、その郭壁には白島から猿楽町までの間に12の二重矢倉と一つの表矢倉があり、三つの門があった。白島口門、今門、矢倉ノ下門である。この絵の矢倉は今門より川下に当たる。郭の内側は白の内堀との間が小姓町と呼ぶ士族の住居地で明治以後は火薬庫、陸軍病院、工兵・輜重兵営所など軍の施設となる。
なお空鞘渡しについては大正15年刊行の「広島市史」によれば元和の末に木屋太兵衛によって始まり、以後はその子孫が継ぐ。東西の大榎に縄を張り手繰りで55間の距離を渡ったとある。元和末年は1623年だから、六兵衛の時代よりも150年以上古いことになる。またその後は明治より大成勘太に、次いで畠山、明治22年村上友吉が渡し守を継ぎ、大正元年電車開通により廃止されるまで続いたという。
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