写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(73)天然プール繁盛記


 4年前の本誌第36号で少し触れたことがあったが、広島市に合併以前の安佐郡高陽中学校には三篠川を利用したプールを造っていた。昭和20年代の末に造られたようで、以後十数年間「天然プール」として大いに繁盛した。これを造るまでは水泳クラブが毎日の放課後に学校のそばの川岸で泳いでいたのを、跳び込み台とターン台を造ろうということになり、さらに屋根も付けようということになったのだろう。

 場所は中深川で、写真の左側対岸は右岸の院内集落。これより百メートルほど川下に院内橋がある。左岸の少し川に突き出した地点を利用して、その懐の川底に木柱を埋め込み、その上に横木を並べて床を造った。されにこの画面内ではないが川下25メートルの位置にやはり柱を数本打ち込んでターンの箇所を造っている。川と言ってもこの場所では流れは川の中程より右岸の方に寄っていて、左岸の側は常の水量の際はあまり流れの影響を受けない場所であった。コースを5つとって、試合に使うのは一番岸よりは除いた4コースを用いた。当時のこの学校はたいてい毎年4学級の生徒数なので、クラス対抗リレーなどには適当な大きさだった。写真は校内水泳大会の時の撮影と思われ、周囲は満員で手前の側にも応援生徒の頭が見える。

 当時の三篠川は水がきれいであったし、コンクリートの人口プールでは味わえない自然の優しさがあった。もっとも、自然は時々ではあるが大水を流して屋根を持って行ってしまうこともあり、屋根の付け替えが数回、土台の修繕が一度あったようだ。

 当時も人口プールを持った中学校があったが、天然プールのこの学校は試合にも強かった。指導者の力か、部員の力か、とにかく水準が高く、高校に進んでからもさらに実力を上げる選手もいて、昭和39年の東京オリンピックにも昭和43年のメキシコオリンピックにも、この天然プール出身者が選手として活躍している。因みに、広島市に合併してから人工プールができたり、天然プールは河川法か何かで廃止されたりしたが、その後はオリンピック選手は出ていない。

 これとは別のことだが、この高陽中学校は戦後の学制改革により2年後に4カ村の村立の中学校が一緒になって出発した学校である。その翌年に同窓会ができた。同窓会というのはどこの学校にもあるもので、珍しいものではない。しかし、ここの同窓会は発足以後毎年欠かさず同窓会総会を行っていることで異彩を放っている。昨年は第56回目であった。これは広島市内の学校だけでなく県内にも類例がない。卒業回数何回と何回が幹事に当たる、と感じが持ち回りになっている。

25,6回卒業生までが特に毎年多く出席しているようである。

 
(幸田光温) 
 
当ホームページ上の情報・画像等を許可なく複製、転用、販売などの二次利用をすることを固く禁じます。