太田川中流澄谷から西宗川を遡ると4キロ程で出口に至る。それより左折、谷川沿いに登る。この谷を空谷と呼び、名護木(なごぎ)、香郷(かご)、横山を通って峠越えすると12キロで加計の丁川(よろがわ)に至る。名護木の左手の山へ入って行くと千本(せんぼん)があり、香郷の左手に入ると野影(のかげ)という集落がある。野影と横山とはそれぞれ上と下に分かれているのでこの谷間には合わせて七つの集落がある事になる。以前に横山の吉田角禧さんや香郷の大前慈朗さんに話を聞いた事がある。
山で割木や木炭を作り、澄谷まで搬出するのが主な仕事だった。明治初年にはこの谷に150戸の家があったが明治24年に96戸に減った。それでも明治35年に横山までのシャリキ道が出来た祝いには芝居を呼んできて吉田家の前の田んぼで興行し、地元だけでなく長笹、吉木の方の人も集まって賑わったという。
大前さんは香郷の福光寺の住職だったが、その話では明治初年にはここに福光寺、法正寺、礼安寺の3つの寺院があったが、明治24年に法正寺は下の東周川に移り、礼安寺は加計の土居に移り、ここには福光寺だけが残った。昭和初年、地域の景気つけをしようと話し合い、「七郷」と呼ぼう。名前だけでなく唄を作ろうということになり「七郷音頭」を作って発表した。しかし、残念ながら殆ど流行らなかったらしい。どんな唄だったのかご住職もあまり記憶にないようだった。
平成の時代になると戸数はさらに減り45戸になった。上の写真は上横山の棚田の風景で標高400mの水田である。これより登ると赤垰を越えて長笹に行く道と、砥石垰を越えて丁川に下りる道に分かれる。
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