荷車では馬や牛に牽かせる馬車牛車は一般だったが犬に牽かせるものは何故か犬車とは呼ばれていない。しかし、加計方面でもよく使われていて、特に登り坂の多い所では有効だった。丁川の佐々木清三さん(明治30年生まれ)から以前に聞いたことがあったが、鶉木峠を越えた地区や安中方面から中六車で木炭や木材を搬出する際には犬が非常に有効で、同業者が20人もおりそれ用に飼い慣らした犬を5円で買っていたという。牛や馬には税金がかかったが、犬は無税だったようだ。たしかに雪や氷の地帯では犬橇は今もあるから、犬の牽引力はかなりのものだったはずである
また人力車でも坂の多い地方では犬を使っていたので加計筋でも盛んに牽かせていた。大正6年10月の芸備日日新聞には次のような記事がある。
「広島県では郡部に入ると大抵の所で犬が俥の前挽きをやる。ワン君は馴らすにも馬車馬のような厄介は無く、一頭の値段は牝で3〜4円、牡の丈夫なのは10〜13円する。この辺の犬になると米の飯に魚か肉の汁をかけねば喰わぬという贅沢だが、その代わりに痩せ脛の車夫より遥かに強い牽引力をもっている。このワン君が加計に行くと木賃ホテルの庭の隅に寝ても宿泊料として20銭取られる。ご主人の車夫は一泊ニ飯で36銭で、ワン君との間隔は16銭である。しかしワン君の悲しさは主人は主人として何処までも敬意を払って、坂にでもなると死力を出して主人を助けるところである。車夫だけの力で5時間かかるこの里程もワン君に祝儀を20銭も奮発すると3時間余りでとぶのである…」とある。
なお当時の人力車の乗車運賃は距離プラス坂、風雨、夜、ぬかるみの場合は2割増しとなっていた。大正7年に山県郡の有田警察が出していた標準額規定から拾ってみると、平地は一里が16銭(往復は定額の五分減)。有田から加計まで乗ると11里だが、うち平地4里に坂がある7里あるため合わせて1円98銭になる(千代田町史)
自動車でも始めの頃の乗り合いバスは坂に来ると乗客は降りていたようだから人が牽く俥での坂道は大変だっただろう。広島の人力車夫の免許所有者は明治40年には5500人いたのが大正に入ると年々廃業者の方が増えて大正5年半数近くに減っている。
なお最近、観光地の中には人力車を復活させている所もあるが、犬牽きはないようだ。
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