水産研究部長のアユ四方山話〜放流の歴史2の巻〜
本誌編集部 安江 浩
2008年11月 第91号


 友釣りは芸術?

 アユ釣りもオフシーズンの今はもっぱら読書にいそしむことになる。いつの間にか本屋やインターネットのオークションで買った本が溜まってしまった。アユに関する本は探すと結構多く、それだけアユが日本人に親しまれ興味のある人が多い証拠かもしれない。ジャンル別にお勧めの本を少し紹介したい。友釣りを始めて指南本を片っ端から読んでいってたどり着いたのが、スーパーウエポンという仕掛けで有名になったプロの主藤秀雄。彼の書いた「友釣り芸術」は、繊細な仕掛けづくりからオトリをいかに泳がし取り込むまでをケース別に写真で解説してあるのだが、この人の釣りはまさに芸術としか言い様がない。友釣り仲間が仕掛けや技量を自慢しあう姿は芸術論議に似ている。ただ、我々のレベルでは骨董品好きの親父達の会話と大差はなく、周囲から胡散臭く見られたりすることもよく似ている。

 川漁師から学ぶ

 釣りの指南本は著者が変わっても書いてあることはほぼ同じで読み物としては面白くない。面白いのは川から生活の糧を得るいわゆる川漁師といわれた人たちが書いたり、モデルとして書かれた本である。太田川では渡康磨氏の評伝がお勧めだが、四万十川の山崎武氏、仁淀川の宮崎弥太郎氏の話も面白い。私は中国新聞社から出版された「アユと江の川」を特に勧めたい。著者の天野勝則氏は現在も刺し網漁師として現役で江川漁協(島根県)の組合長を勤められている。70年代に開発などで漁獲量が減り多くの川漁師が廃業する中で「川で食う」と決意し、極貧の中からスタートし知恵と工夫で魚を取り家族を養いあげた。彼の観察眼は実に鋭く科学が追いついていない感もある。友釣りにも大いに参考とさせていただいた。さらに、ダムの功罪や河原の浄化作用など川の環境問題を考える上でも、大変参考となる。文章もさることながらほのぼのとした挿絵も秀逸である。

 宮地伝三郎とアユの話

 アユの科学を世に広めたのはなんと言っても「アユの話」宮地伝三郎であろう。初版は1960年で古典の部類に入るのかもしれないが、今読み返してみても古いという感じがしない。宮地氏は広島県因島の出身で京都大学で教鞭をとる傍らアユのなわばりを研究した。もともと河川に漁業権を与える代わりに増殖義務を課した水産庁が、適正なアユの放流量を評価するために各県の水産試験場に宿題を出したのが始まりで、さじを投げた京都府がちゃっかり京都大学にお願いしたのが真相らしい。このような実用化研究は大学向きではないと普通は斷られるのが落ちなのだが、徹底したフィールドワークと自由な論議を重視するのは京大の学風で宮地氏は快く引き受けた。その後サルの研究など動物生態学の分野でも数々の業績をあげることとなる。今西錦司、伊谷純一郎、梅棹忠夫などの有名人も同一の門下だ。京大の研究により、アユの縄張りの大きさはほぼI平方メートルで、有効な河川の面積に対して0.7尾/uが適正な密度とした結論は、今でも放流する際の目安となっている。

 ウナギ池の水変わり現象

 さて、昭和30年代にこのような放流の議論が進んだが、肝心の種苗は旺盛な需要に応えられず人工の種苗を求める声が高まった。このため、多くの研究機関でアユの人工種苗生産研究が進められたが、孵化した後のアユの囗に合う餌が見つけられず大きな壁に阻まれていた。今でも研究のブレークスルーは意外なところからやってくるものだが、この答は当時、養鰻池で水変わり現象を研究していた三重大学の伊藤隆氏よりもたらされた。当時の鰻養殖は池にアオコのような植物プランクトンを湧かして行うのがコツであった。プランクトンは酸素を供給し、鰻を落ち着かせる役目もあった。ところが、ある種の動物プランクトンが大発生するとこのアオコを食いつくし、水が透明になると酸欠により鰻が全滅してしまう。業者はこれを水変わり現象と呼んで恐れていた。伊藤氏はこのプランクトンがツボワムシによるものと突き止め、アユの餌になるかもしれないことを思いついた。こうして、アユの種苗生産に成功したのは昭和37年(1962)のことである。

 淡水魚指導所

 この成功を受け国の主導で各県が人工種苗生産の試みを始めたが、安定した大量生産には時間がかかったようだ。広島県の記録では昭和41と42年に賀茂郡河内町(現在東広島市)にあった南部淡水魚指導所が試験生産を試みているが成功していない。淡水魚指導所とは昭和33〜34年に庄原市(北部)と河内町に相次いで設立され、北部では主に食用鯉、南部では錦鯉の研究を行っていた。昭和44年には本場が広島市の草津から呉市の音戸へ移転し、南部の指導所は北部へ統合された。このため、アユの種苗生産の研究は音戸で、放流技術や親魚の養成を庄原の淡水魚指導所が担当することになったのである。そもそも、アユは淡水魚だが稚魚の時代は海で育つのでこの役割分担は都合が良い。さらに汽水や海水でも育つシオミズツボワムシが発見されると、アユの人工生産は飛躍的に発展した。

 川を上らない人エアユ

 昭和40年代に技術が確立したアユの種苗生産であるが、川に放流してみるとアユの特性を発揮するには程遠かったようだ。当時淡水魚指導所の村上恭祥氏はこう述べている。「琵琶湖産と人工産種苗の放流現場で観察してみると、琵琶湖産は放流直後に上流を目指して上り姿が直ぐ見えなくなるのに対し、人工産は暫く放流地点に留まり、メダカのように群れで下流へ移動していく。移動するというより流されていく感じでいつまでもその姿を観察することができた。」当時の釣り師は人工産は放流しても釣れない、釣れても奇形が多いと酷評した。

 広島産アユが全国標準に

 この弱いアユは餌の栄養不足によるもので、餌に栄養を強化をすることで、昭和50年代には天然のアユと同等の特性を示すに至った。その特性を評価する方法として村上氏は飛び跳ね検定という方法を編み出した。溯上期のアユは滝があれば飛び跳ねる習性を応用し、人工滝を作って飛び跳ねる回数を数えるのである。強いアユほど良く飛び跳ねることから結果はその種苗の強さを表す。その強いアユほど縄張りを持ち侵入魚を良く追った。ついに広島産の人エアユが琵琶湖産に追いつき追い越したのである。村上氏の考案した検定法と広島1号或いは累代系と呼ばれるアユは検定や放流効果にブレが少なく、検定用の標準種として全国へ発送された。広島産の人エアユが脚光を浴び黄金時代を迎えたのである。

 
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