水産研究部長のアユ四方山話〜放流の歴史の巻〜
本誌編集部 安江 浩
2008年 9月 第89号


 
大アユのいざない

 9月に入るとアユ釣りも終盤である。川原のあちこちに彼岸花の赤い花が咲きだすと、ああ、今年も終わりが近いと感慨深くなる。例年、旧盆を過ぎるとアユはとても釣りづらくなる。一説には次世代の子供を宿すことに専心するため、縄張りを捨てて淵や卜口場で群れをつくるようになるためだとされる。多くの川で刺し網などが解禁となり、大量に漁獲されることも理由かもしれない。でも、私はシーズンを通してこの時期のアユ釣りが一番好きだ。釣り師の姿も少なくなり、広い瀬を独占して釣ることができる。決して数は釣れないがここで駄目ならあちらでと、狙った場所で納得の行く釣りができれば満足できるのである。さらなる楽しみは大きく育ったアユを一発勝負で狙うことである。その目標何といっても尺アユを釣ることだ。尺とはもちろん30・3センチ、全長がこの長さ以上のアユを釣ることはアユ釣り師の一つの夢である。

 太田川で尺アユは滅多にでないようである。毎年秘かに狙ってはいるがいつも最大は26〜27センチまでだ。それでも、6年前に29センチ(写真)を釣り上げた。釣った場所は坪野の安水橋の上みで、このアユは掛かったとたんオトリもろとも瀬を下って糸が切れるか否かの寸前で、どういう訳かUターンして戻って来てくれたため取り込むことができた。そのまま下られたらまず釣り糸が切られていただろう。大アユの大きさを表現するのに片手で握るのが難しいというのがある。まさにこのアユはそれでオトリ缶に両手で大事に収めた時の興奮は今でも忘れない。



【写真1】
 このアユが釣れた年(2002年)の太田川は解禁から絶不調の年だった。5匹も釣れれば良い方で下手すれば坊主の日もあった。そのためか釣れたアユは皆、大きかった印象がある。流量の絶対量が少ない太田川では、このような特別な年にしか尺アユに出会うことができないのかもしれない。

 
アユ放流の歴史

 まもなく友釣りのシーズンも終わりを告げるが、その人気が持続する理由の一つに6月から9月まで1年に4ヶ月しかチャンスがないこともある。ほろ苦い反省とともに行く夏を惜しみ、来シーズンへ思いを馳せる釣り師だが、アユはそんな感傷に浸っている場合ではない。次世代を残すのにさほど時間は残っていないのである。アユの性成熟はまず日長が短くなってくるとスイッチが入る。細かい調整は水温や水量が関与するといわれる。いつの時代に遺伝子にそのプログラムが組み込まれたのか、種苗の生産現場では秋分の日の頃から湖産系で採卵が可能となる。体育の日の頃には人工産といわれる系統、その後、海産といわれる系統が最後に熟してくる。今でこそアユの人工種苗生産が主流になりつつあるが、河川のアユの増殖手段は当分の間、琵琶湖や海産といわれる天然アユの移植が続いて来た。広島県でその歴史に少し触れてみたい。

 
西原で増殖試験を開始

 広島県の水産試験場は明治33年に開設されたが同41年に一旦廃止となり、大正11年に再設置されている。当初は県庁内に設置されていたが昭和12年に本場を草津町(現西区)に移した関係で、原爆の被害を免れ戦前の貴重な資料も良く残っている。その業務報告書からアユに関する課題を拾ってみた。最初の記載は1923年(大正12年)に安佐郡原村大字西原の太田川右岸でアユの孵化放流試験を開始したとある。内容は卵の熟したアユの雌の腹から卵を絞り、雄の精子をかけて鳥の羽を使ってかき混ぜて棕櫚等の産卵巣に卵を付着させて管理し、孵化したところを河川に放流するという簡易なものである。太田川右岸には採卵や孵化させるための施設があったようだ。【図1] [図2]
 この試験は毎年800万から1200万の孵化仔魚を得た記録があり、昭和4年まで7年間続いた。中止した理由は不明だが、事業そのものは太田川水産会(昭和6年設立)と太田川漁業組合(昭和8年設立、協同組合ではない)に引き継がれた。

 
琵琶湖産小アユの放流

 次に記録が出てくるのは1932年(昭和7年)である。鮎増殖事業と称し琵琶湖産小アユの放流と海産小アユの放流が計画され実施されている。琵琶湖の小アユについては東大の石川千代松博士が琵琶湖では環境の制限で大きくなれないが、一般河川に放流してやれば大きく育つはずだと仮説を立て、東京の多摩川でそれを証明した有名な話を皆さんも聞かれたことがあるかもしれない。その実験が行われたのが1913年(大正2年)である。その後、小アユの放流事業がどのように発展したのか不明であるが、この種苗が大変貴重であったことは、事業の結果を綴った文章からも伺える。「昭印9年5日19日午後2時滋賀県知内川小鮎配給所を出発、鉄道貨車で翌日13時広島駅に到着、この間4名の技手が付き添い、水温上昇時には氷を投入して管理を行った。」広島駅からは1トン半の貨物自動車に水槽2個を積み、江の川方面と太田川方面に分かれて放流を行っている。ちなみに、太田川では下殿村穂平、上殿村正地、安野町坪野、筒賀村田之尻、加計町西谷という放流地点が読み取れる。その時の放流サイズは8・7センチ5・7グラム、尾数は2万尾であった。現在、太田川では100万尾を超える種苗が放流されている。当時の光景や放流に携わった人たちの気持ちはいかがなものであったか聞いてみたいものがある。

 
海産小アユの探索

 一方、海産小アユの放流計画は、湖産だけではまかないきれない県内河川の需要に応えるために計画されたのではないかと考えられる。昭和7年から音戸、倉橋、広、阿賀などの呉市沿岸や大野、大竹など佐伯沿岸で網による小アユの漁獲が試みられている。昭和11年からは河川溯上のアユも対象となっている。昭和12年の記録では、音戸の奥ノ内湾で3月から5月にかけて16日操業し、うち8日漁獲があり総尾数は13,289尾、蓄養中に死亡等で減耗したが8,269尾を河川へ放流に成功したとある。これが最高の成績で全般に成績は芳しくなかったようだ。呉市沿岸が選ばれた理由は、広湾に注ぐ黒瀬川は途中の二級峡でアユの溯上が阻まれるため、ここで育つアユを積極的に資源として活用することが推奨されていた。

 その後、広島県内では海産小アユを効率よく取る方法は見つけられず、湖産アユと他県産の海産アユを種苗として導入するようになったのは間違いないであろう。戦後の食糧危機が一段落すると。再び河川にアユを増やす試みが再開された。次回は人工種苗の歴史に迫ってみたい。


 
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