琵琶湖産小アユの放流
次に記録が出てくるのは1932年(昭和7年)である。鮎増殖事業と称し琵琶湖産小アユの放流と海産小アユの放流が計画され実施されている。琵琶湖の小アユについては東大の石川千代松博士が琵琶湖では環境の制限で大きくなれないが、一般河川に放流してやれば大きく育つはずだと仮説を立て、東京の多摩川でそれを証明した有名な話を皆さんも聞かれたことがあるかもしれない。その実験が行われたのが1913年(大正2年)である。その後、小アユの放流事業がどのように発展したのか不明であるが、この種苗が大変貴重であったことは、事業の結果を綴った文章からも伺える。「昭印9年5日19日午後2時滋賀県知内川小鮎配給所を出発、鉄道貨車で翌日13時広島駅に到着、この間4名の技手が付き添い、水温上昇時には氷を投入して管理を行った。」広島駅からは1トン半の貨物自動車に水槽2個を積み、江の川方面と太田川方面に分かれて放流を行っている。ちなみに、太田川では下殿村穂平、上殿村正地、安野町坪野、筒賀村田之尻、加計町西谷という放流地点が読み取れる。その時の放流サイズは8・7センチ5・7グラム、尾数は2万尾であった。現在、太田川では100万尾を超える種苗が放流されている。当時の光景や放流に携わった人たちの気持ちはいかがなものであったか聞いてみたいものがある。
海産小アユの探索
一方、海産小アユの放流計画は、湖産だけではまかないきれない県内河川の需要に応えるために計画されたのではないかと考えられる。昭和7年から音戸、倉橋、広、阿賀などの呉市沿岸や大野、大竹など佐伯沿岸で網による小アユの漁獲が試みられている。昭和11年からは河川溯上のアユも対象となっている。昭和12年の記録では、音戸の奥ノ内湾で3月から5月にかけて16日操業し、うち8日漁獲があり総尾数は13,289尾、蓄養中に死亡等で減耗したが8,269尾を河川へ放流に成功したとある。これが最高の成績で全般に成績は芳しくなかったようだ。呉市沿岸が選ばれた理由は、広湾に注ぐ黒瀬川は途中の二級峡でアユの溯上が阻まれるため、ここで育つアユを積極的に資源として活用することが推奨されていた。
その後、広島県内では海産小アユを効率よく取る方法は見つけられず、湖産アユと他県産の海産アユを種苗として導入するようになったのは間違いないであろう。戦後の食糧危機が一段落すると。再び河川にアユを増やす試みが再開された。次回は人工種苗の歴史に迫ってみたい。
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