災害
〜呉・江田島断水問題から〜
広域水道と呉市の水道を考える
2006年10月 第66号


 呉市と江田島市で3万2千世帯が12日間断水した広島県水道のトンネル崩落事故は、太田川の水を山を越え瀬戸内海の島と沿岸部に送る広域水道のもろさや問題点を改めて浮上させています。
 広島県は10月5日、事故調査委員会を設置するとともに今後、送水管の複線化やループ化、非常時の市長の自己水源の活用などを関係者と協議検討する方針を明らかにしています、
 そこで、全体の70%を県営水道事業に依存している呉市の水道(上水道)に焦点を当てて、呉市の水道事業の歩みをたどりながら、広域水道の問題点や今後の方向について考えてみたいと思います。(取材・篠原一郎)
 

《旧海軍水道》

 呉市は明治の中頃までは、半農半漁の村で、沼地を埋め立てたところが多かったので、井戸水が汚れて飲めず、飲料水は「いなり水」を買っていた。1889(明治22)年、この地に呉海軍鎮守府が置かれ、水道建設に着手、1890(明治23)年、二河川に取水場を造り、約4km離れた高台に宮原浄水場を通して、呉工廠など海軍施設に給水したのが、旧海軍水道の始まり。その後海軍は、1945年の敗戦まで、本庄水源地、戸坂浄水場、三坂地水源地、石内浄水場などを建造するが、海軍専用施設であったため、市民はその恩恵を受けられなかった。戦後になって、1952(昭和27)年、旧軍港市転換法により呉市がこれらの施設を受け継ぎ呉市水道事業、工業用水事業を支える施設として稼働、現在も呉市民の生活を支えている。

 
※いなり水=二河川の辺りに稲荷神社があり、名水が湧出「いなり水」といわれた。この水を売る、水売り業者がいて市民はこれを買っていた。(1ヶ月60銭、豆腐1丁2銭)
 
《市民給水の開始》

◆平原浄水場=1918(大正7年)完成。

 大正の初め、呉市は、海軍が建設する本庄水源地からの余水分与を申し出て承認され、二河の滝左岸から分水し、平原町に浄水場をつくり導水する計画を立て、1918(大正7)年、本庄水源地開通と共に呉市街地を展望できる高台に平原浄水場を完成させ、市民給水を開始。これが呉市水道事業の始まりになる。


◆三永水源地=1943(昭和18)年完成〜有効貯水量264万立米(取水3万5千立米)

 呉軍港の増強により呉市の人口は、周辺地域の合併もあり、1943年には40万人に増加、毎年のように水不足に悩んだため、新たな水源地として、東広島市三永に4年余りの突貫工事で水源地を築造、26キロ離れた平原浄水場に通水した。

 以上が戦前までに建設された海軍水道と市営水道の施設の概要であるが、戦後、旧軍港市転換法により1954(昭和29)年に国からの譲与で、市営水道と旧海軍の両施設が一元化された。
 
《市が受け継ぎ使用した主な海軍施設》

◆本庄水源地=1918(大正7)年〜有効貯水量196万立米(3万6千立米/日)
 焼山地区に築造、当時東洋随一の大貯水池。現在も取水量=3万5千立米/日)。
 堰堤などが国の重要文化財に指定されている。
◆宮原浄水場=1909(明治23)年完成

 青山町にあり、現在も稼働するレンガ造り配水池として日本最古のもの。国の登録有形文化財に指定。現在は市営浄水場(給水量5万3900立米)と県営浄水場(給水量1万4200立米)があり、呉市水道の中心施設として稼働中。
 
◆戸坂浄水場=1944(昭和19)年完成。

 軍港の充実拡張で当時呉市は人口40万人に増加、海軍は水源を太田川に求め、戸坂に浄水場を建設し、28キロ離れた呉市まで送水管を敷設、当時2万7千立米/日の太田川の水を宮原浄水場に送水。1986(昭和61)年廃止まで3万5千立米/日を送水。

◆二河取水場(1万2千立米)及び三坂地水源地(1万3千立米)は現在市営工業用水として稼働中。

 以上が呉市水道事業の主な歩みですが、もともと年間雨量、1000mm〜1200mmという雨の少ない地域であり、地元に水源開発の条件は乏しいため、25キロ以上離れた、広島市戸坂の太田川や東広島市の三永に水源を求め、送水管を敷設してまで、水を運ばなければならなかったことが分かります。

 一方、広島県は太田川を水源に、水不足に悩む安芸灘の島々に給水する事業を昭和49年から実施、以後拡充する中で、呉市は1983(昭和58)年からこの広島水道用水供給事業に乗って、受水を開始します。
 
三永水源地の水を
太田川と水源振り替え


 広島県は1982(昭和57)年3月、東広島市を中心にした広島中央テクノポリス地域の基本構想を策定、ここの工業用水確保のために1988(昭和63)年4月、呉市が取水している三永水源地(3万5千立米/日)の内1万5800立米を工業用水として使用し、代替として太田川を水源とする県の水道事業に振り替え給水することを呉市との間で契約します。こうして県は、昭和63年には、東広島市の吉川工業団地、続いて東広島中核工業団地には1990(平成2)年から三永水源地の水を工業用水として給水を始めます。その後、吉川工業団地に2000(平成12)年、半導体メモリ、ドラムなどを製造する「エルピーダメモリ梶vが進出、これには相当量の水が必要になり、三永水源地の残りの水量(1万9200立米)も同様の形で、平成16年から県の水道事業に振り替えられることになりました。

 こうして、呉市の上水道の水源は、本庄水源地(3万6千立米)と太田川に集約されることになりました。

 また、海軍の施設を受け継いだ戸坂浄水場は、送水管が広島ー呉間を結ぶ国道31号線に埋設されているため、老朽化したことや浄水場地区への県立盲学校の移転要請もあって、1986(昭和61)年廃止しますが、翌62年に取水場として再稼働し、現在も広島県へ委託して、2万3千立米/日宮原浄水場へ送水稼働しています。
 
70%の水源を太田川に依存

 以上呉市水道事業の歩みと現状を概括しましたが、現在の配水ルートと水量をまとめると(表1、図1)、太田川を水源とするルートは高瀬堰で取水する県営水道と戸坂で取水される2系統あります。高瀬堰取水の水は、瀬野川浄水場へ送水しますが、ここで2つのルートに分かれ、浄水した水は「本庄隧道配水池」を経て、郷原、昭和、安浦地区へ配水されますが、まだ浄水されないものは、戸坂で取水され温品浄水場を経てきた水と、海田町の国信で合流してここから一本の送水管になり、宮原浄水場に送られます。今回、崩落事故が起きたのはこの海田町、国信の合流点と呉市の宮原浄水場を結ぶ間の広島市矢野地区のトンネルです。

 自己水源としての本庄水源地からは平原浄水場に送水、そこから中央、阿賀、警固屋の各地区に配水されます。水源地と水量の関係を見ると、表1の通りで、呉市の1日総供給量13万3800立米の内、7万6600立米(70%)が太田川の水に依存しています。

 現在呉市の人口は25万5000人、11万1000世帯、(平成16年以降、下蒲刈、蒲刈、豊、豊浜、音戸、倉橋、川尻、安浦、の各町合併人口約5万人)で、給水人口は24万1000人(普及率99%)です。これまでの経過を振り返ると、大きくは三永水源地が県の工業用水に利用され、その分が県営水道に振り替えられたことが、太田川水源依存70%の現状に至る一番大きな要因であることが分かります。呉市水道局の話では、三永水源地からの送水管も60年以上経て老朽化しており、その改修費用より県営水道に振り替えた方が安くなるという判断での選択だったということです。
 
呉市の水道料金は全国平均並み

 全国的に戦後経済の高度成長下、水資源開発は地元にある水源から、ダムをつくりそれを広域的に配水する方向で進められてきました、特に昭和50年代後半からは工業用水開発から水道用水が優先され、それも広域水道向けの多目的ダムの建設が多くなります。そのために過大な水需要を見込んでダムを造り、その費用が水道料金に降りかかって水道料金値上げの原因になっているという批判的意見がよく聞かれます。

 つまり、広域水道への依存はその水を買うための受水費がかさみ全国的にそれが、水道料金を押し上げるということ。呉市の場合、三永水源地の水と振り替えたので、その分は無料だということです。呉市の水道料金は、1ヶ月3090円(20mm管、20立米使用)。同じ量の全国平均が3056円で全国並みです。(同量で広島市=」2342円、江田島市=4714円)。呉市の昨年度の受水費は11億5700万円、全費用に対して21.8%をしめ、全国平均16.6%より重い負担ですが、これは町村合併で呉市に編入した町の受水費が加算されたからだということです。
 
自己水源を基本に見直しを!

 広島県の場合、瀬戸内海一帯は年間雨量1000〜1200mmという降雨量の少ない地域を抱え、一方では、太田川源流地帯では2400mmの多雨地帯を水源とする、豊かな太田川の水がある。その表流水や土師ダムからの分水、さらに温井ダムを築造、それを水源に瀬戸内海地域給水するということは、全国の流れに沿った当然の計画だったと言えるのかもしれません。


 ただ、呉市水道の歩みを考えると、県営水道事業に振り替える昭和58年以前の自己水源供給能力は、表2にある通り、11万8000立米/日ありました。今全国的に水道水の使用量は1997年をピークに減少していて、呉市の場合も供給能力13万3000立米に対し、配水量は年々減少しつつあり、去年は、1日8万2000立米に減っています。広域水道に頼らなくても自己水源で水量は間に合っていたということです。工業用水も減る傾向で、現在は水は余っている状況です。

 このたびの断水事故は海田(国信)=宮原間を1本の送水管で結ぶ広域水道のもろさを露呈しました。そのためバイパス造成の意見もあります。また、現在の送水管を更新するプロジェクトも計画され、全ルート407キロを更新するには1400億円かかるといわれます。

 太田川の水が水の乏しい地域に役立つことはうれしいことですが、水が今後も余る現状を踏まえて、ここでもう一度地元の水源や既設の施設を見直し点検する必要があるでしょう。今回の事故でも、本庄と宮原接合井間の古い送水管が見つかり、江田島へ救援の水を送ったということもありました。昭和61年に廃止した戸坂と宮原を結ぶ送水管や三永水源地と平原を結ぶ送水管も、まだ埋設されたままです。こうした施設の点検を通して、できるだけ身近で、自然な水の循環を取りもどす方向を探る必要があると思います。
 
 
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