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 連載 環境問題の羅針盤Z 藤井 直紀

2008年 7月 第87号 


【「きれい」という言葉】


 南国の海を観たとき、神秘の滝に出会ったとき、自然と「きれい」という言葉が出てくる。感動を表す素直な言葉で、しかも簡潔な表現であるので、多くの人が口にする言葉である。勿論私も例外ではなく、よく使う言葉だ。

 ただ、最近この言葉の使い方が非常に気になる。というのも、環境問題対策を取り扱った標語の中に「きれいな自然に」、「きれいな環境を」といったように、「きれい」という文字があちらこちらにちりばめられている。この「きれい」という言葉は本当に自然や環境の有り様を表しているのだろうか。

 この言葉は環境問題対策の目的を表すのには意外と曲者ではないかなと感じている。それには二つの理由が挙げられる。ひとつは、「きれい」のもつイメージは人それぞれ違うということだ。イメージが違えば、それはみんなの共通の目的とは成りにくい。二つ目は、人間の「きれい」という感覚が自然にとってよい状態なのか疑問だということだ。今回はこの二つの課題を取り上げてみたい。

 
【「きれい」のもつ意味」

 きれいな景色、きれいな空気、きれいな模様、きれいな関係。
 前述したように、「きれい」という言葉は、我々の日常でよく使う(?)言葉なので意味はよくご存じだろう。しかし、再度丁寧に意味を確認しておきたい。日本語辞典「大辞林」によると、「きれい」にはつぎのような意味であると書かれている。

 一 色・形などが華やかな美しさをもっているさま。
 二 姿・顔かたちが整っていて美しいさま。
 三 声などが快く聞こえるさま。
 四 よごれがなく清潔なさま。
 五 男女間に肉体的な交渉がないさま。清純。
 六 乱れたところがないさま。整然としているさま。
 七 (「きれいに」の形で)残りなく物事が行われるさま。すっかり。

 辞典の解説をみてみると、自分の感性で「正」と感じたものを「きれい」だと表現していると解釈することが出来るような気がする。つまりあくまで主観的にとらえた表現ともいえる。主観的にとらえることは必ずしも悪いことではない。ただ、最近の「主観性」は傾向としてやや度が過ぎるような気がするのだ。

 その一例が、我々人間のペットの扱いだ。私は以前、若者放談で「ほんとうに今のペットの扱い方は良いのか?」という問いかけをした(環・太田川第66号若者放談参照)。この記事が出た当時、某犬飼育施設の問題があったせいか、多くの反響があった。それに、環・太田川の読者は、おそらくペットが身近にいる人が多かったためだろう(こちらの理由は勝手に私か想像したことだが・・・)。

 そのときの記事はこうだ。動物の愛護及び管理に関する法律(動物愛護管理法)には『動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく、人と動物の共生に配慮しつつ、その習性を考慮して適正に取り扱うようにしなければならない。』(第二条)とある。しかし、今の日本人が行っている動物との接し方は本当に”その習性を考慮して適正に”なんだろうか。動物を人間の子供のように扱ったり、ぬいぐるみのように扱ったりすることは、本当に動物を理解した行動だろうか。動物愛護と呼ばれる行為はほとんどエゴ的行動に近くなってはいないだろうか?きつい言葉で言えば、ある意味、動物へ人間の気持ちを押しつけているだけではないか?

 上記のことはそのまま、「環境」や「自然」、もう少し大きく捉えるなら「地球」に対しても当てはまる気がする。エコでなくエゴを押しつけている可能性だって否定できない。

 こんなことを書くと、「初めは『きれい』とか『美しい』とか、そういった感性を養うことから地球環境について考えるきっかけになる」との反論がくる。しかし、一方で「知っているだけではすまされない」なんて焦らしいことを言っている。「初めは〜」なんて悠長なことは言っていられないほど急務だと、テレビは叫んでいるのになんか矛盾していないかという気がしてならない。

 なにが『きれい』でなにが『きたない』のか。この定義をしっかりとつけない限り、このままいけば勝手な想像を地球に押しつける結果になるようで怖い。

 
【「きれい」がいいのか?】

 私の主観だが、最近の「きれい」という言葉は、色彩だけでなく、場にふさわしくないモノがあるのか、それともないのかという点に関わっているような気がする大辞林の解説する「四 よごれがなく清潔なさま。」に相当するかもしれない。例えば、河川清掃、一「川をきれいにしましよう」というのは川にふさわしくないモノを取り除こうという活動だろう。『ふさわしくないモノ』のほとんどが人間が廃棄したものなので、なんとかしようというのである。これは非常にわかりやすい。その自然のためにもなる『きれい』という目的なのだろう。

 しかし、これが「きれいな水」ともなれば少し話が異なってくる。「きれい」というのが何なのかは人それぞれだ。人が飲んでおいしい水かもしれないし、単に澄んだ水かもしれない。

 通常は、富栄養化の原因となる物質があることを指す。例えば、市民が参加して行う生物観察のなかに、「指標生物」で水の質を知ろうというのがある。環境省水・大気環境局と国土交通省河川局が作成した子供向けの調査手引き書『川の生きものをしらべよう』には、

 きれいな水の指標生物
 少し汚い水の指標生物
 きたない水の指標生物
 大変汚い水の指標生物

 という区分がある。これはもともと河川研究者が利用していた手法を簡単にしたものである。生物の種類を見る限り、富栄養化度合いの指標のように見える。このことからも富栄養化の度合いが、「きれい」の指標になっているらしい。

 しかし、この指標が示すような「きれい」さが本当に自然にいいのだろうか? 通常すごくきれいなところには生物は少ない。それもそうだろう。栄養となるものがないのだから当然である。ありすぎれば害になるだろうが、ほどほどには必要としているのが自然である。しかし、栄養が少ないことをが示すような「きれい」を指標にしてしまうと多くの生物にとってよい環境とは言い切れない。

※指標生物は化学分析のように厳密ではないし、影響の時間間隔は異なる。したがって、必ずしも『川の生きものをしらべよう』で判定される「きれいな水」が悪いといっているわけではない。

 
【自分の言葉で表現する】

 「きれい」という言葉は、耳に入りやすい言葉だが、実際の意味を考えてみると、非常に基準化しにくい言葉である。私のような生物と環境を研究する人は普通「きれい」という言葉は使わない。「豊か」というような言葉の方がしっくりくるので、一般向けの紙面にはこのような言葉を使う。標語を作る際には安易に「きれい」と言う言葉を使わず、自分が考える「自然」、「環境」を表すような言葉をじっくり考えることをお勧めしたい。

 
「予  告」

 いつの間にか、洞爺湖サミットが終わってしまった。この会議で何か議論されて、何か決まったのか。次回は、サミットの内容を考えてみたい。

 洞爺湖サミットの情報はホームページに掲載されている。会議の詳細までは載っていないが、なにが話し合われたのかまでは書いてある。また、サミット議長である福田内閣総理大臣の会見も載っており、ここにおおよその議題が集約されている。大きな議題としては、
 @地球温暖化の進行に関する問題
 A原油や食料価格の高騰に関する問題
 B金融市場の緊張に関する問題の三点だろう。どれも独立しているようだが、底ではつなかっている問題のような気がする。

 これらの問題が解決されたのかといえば、そうでもない。見えてくるのは各問題に対しての主導権争いだ。サミット参加国だけでなく、他の経済成長の国々も含んでいる。

 これらから見えてくるものは何だろうか? このなかで福田総理の目指す環境リーダー国に日本はなれるのか?ちよつと考えてみたい。

   まだまだつづく!
 

 
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