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連載 モーッアルトと広島湾の魚 川上 清

第1話 モーッアルトとの出会い
2006年 8月 第64号


Kさんバレーで活躍

 Kさん77歳、kさん76歳、頭文字をとると同じケイだが2人は広島一中(現・国泰寺高校)昭和17年入学の同級生である。Kさんは秀才の集う中島国民学校から選ばれ広島一中に入学した学業、スポーツに秀でた美少年である。

 当時、広島の国民学校バレーボールは、桜鳴国民学校を頂点に、中島国民学校もその強豪の一角を担っていた。試合は常に接戦の連続であったが、残念ながら接戦の最後をものにしていたのは「桜鳴」であった。

 前衛のポイントゲッターで活躍していたKさん。6年生最後の試合で目を見張るような鋭いスパイクを決め、宿敵「桜鳴」を下して優勝。広島一中入学に花を添えたのである。

 中学生活にも漸く慣れ始めた秋たけなわの頃、音楽の時間に中村先生(広島では著名なバイオリニスト・故人)に2枚組のコロンビア青ラベルのSPレコードを聴かせてもらったことがあり、静かに聴かなかったからひどく叱られたことがあった。

 その後、学徒動員、原爆、敗戦と国家的悲劇に見舞われ、心の奥深くに残っていた名曲の記憶も薄れかけていた数年前、同志社大学に進学したある日、Kさんは偶然この曲にめぐり会った。
 

モーッアルト狂の始まり

 その澄み切った美しい旋律に身も心も洗われる思いにさせられた。調べてみるとその曲はモーッアルトのバイオリンソナタで、シモン・ゴールドベルクの名演奏によるものであった。聴けば聴くほどすっかりモーッアルトに魅せられ、「よーし一生かけて全曲集めてやろう」と深く思いこれがKさんのモーッアルト狂の始まりとなった。

 今年は丁度モーッアルト生誕250年で、モーッアルトブームが湧き上がっているのは御承知のことと思うが、50年前の昭和31年は200年祭が盛大に催された年、それまで日本のクラシック部門では常にトップであったベートーベンを抜いて、モーッアルトのレコードが数の上でもトップに躍り出たのである。
 

全曲収集は一瞬で叶う

 それから35年、平成3年には没後200年祭りも無事終わり、その催しの一環としてレコード会社各社は競ってモーッアルト全集を作り始めた。ほとんどは有名な曲を抜粋したもので、何か物足りない思いであったが、ただ1社フィリップ社だけは完全曲版を発売した。それは日本でもモーッアルト研究の権威で国立音楽大学学長の海老沢敏氏の解説書付きで全16巻185枚のCDが黒表紙に金文字という豪華な箱に収まった大全集であった。

 ケッヘルは歴史的なモーッアルト研究家で、生涯をかけてモーッアルトの作品を年代順に並べて世に出した人であるが、K1からK626(最後のK626「レクイエム」は未完)モーッアルト5歳から35歳までの全作品の集成とされていた。しかしケッヘルの以後発見された作品は、K××−a−bと追加ケッヘルとして整理され、フィリップス社はそれらをすべて含めて発売したのである。

 モーッアルト病、膏盲に入っていたKさんは大枚42万円を払って一目散に購入した。彼はその言い訳に「オマケ」についたドイツグラムフォンレコードの有名なオペラ「フィガロの結婚」全曲盤CD2枚が凄いフェロモンになったのだという。

 結局、Kさんの生涯をかけてでもと、憧れていた全曲収集の大目的は一瞬にして叶えられたのである。
 

kさんは教科書が苦手

 kさんは黄金山下の小さな楠那国民学校出身である。丹那前の干潟やかきひび(ひびは竹冠の下に洪)を望む風光明媚なすばらしい環境に恵まれた学校である。広島一中に入るなど学校始まって以来、夢のまた夢で、とてもとても実力では絶対駄目なところ、たまたま受験番号が300番ぽっきりであったことで慣例で合格できたのである。

 国民学校の6年間、夏は海の干潟で遊び暮れ、冬は裏山での兵隊ごっこと家で教科書など開いたことはなかった。親もそれを一向に気にすることもないし放し飼いであった。

 秀才の集う中学に入ってからが大変。勉強する癖がついていないので、授業中でも集中できない。居眠り、あくび、くしゃみ、鼻毛抜きと全く集中力のない授業中。それにスポーツはまるで駄目ときているので、教練や修練は可(優、良、可、不可)ともはや何も語りたくない毎日であった。
 

カキ屋と漁師の道を選ぶ

 Kさんがモーッアルトのバイオリンソナタに心を奪われ、音楽に強い憧憬を持ち始めた頃、kさんは妙に色気づいてモーパッサンやフローベルの自然主義に没入、同じようなぼんくら仲間と「脂肪のかたまり」とかいう胸がときめくような小説を回し読みしていたのを思い出す。

 Kさんがモーッアルトまみれになって京の都で優雅な学生生活を送っていた頃、kさんは大学などとても、とてもといみじくも悟りを開き生涯の職業にカキ屋と漁師の道を選んだのである。
 

同窓会で珍弟子誕生

 Kさんがこの5月に長い長いサラリーマン生活からリタイア、自由な身になると生来の魚好きから漁師一本槍できたkさんを思い出し、ひとつ魚獲りに挑戦してみようと思い立ち、同窓会でジョッキを傾けながら頼んでみた。kさんは即刻OK。ただし交換入門でモーッアルトを教えてもらいたいとのお返しにKさんも快くOK。Kkの珍弟子誕生とあいなったのである。
 

初陣!鰈との出会い

 6月初め、第1回目の刺し網漁に出漁。前日夕刻に仕掛けた似の島北端、赤石の鬼虎魚(オニオコゼ)と鰈(カレイ)狙いである。

 早朝、赤石に撒いたナイロン製の3枚建刺し網を上げ始め、20mもいかないうちに35.5センチ750gもある「マコガレイ」をゲット。似の島回りではめったに揚がらない大物である。Kさんの刺し網入門第1号がとてつもない特大物で、それは、かつてモーッアルトに入れあげるようになった時の状況と切っても切れない因縁で結ばれているように思えてならない。
 

やみつきになると確信

 kさんは「これは絶対やみつきになるでぇ」との思いを新たにしたのである。

 当日の漁獲は35.5cm、750gの「マコガレイ」を筆頭にカレイ7枚、本眼張5、海タナゴ3、チンポダシ2、赤にし4であった。プロの漁師ではどうにもならない量であるが、第1回目の授業としてはまずまずの成績で、今後に大きな期待が持てる初日であった。

 鰈は世界の温帯から寒帯にかけて93種類、日本近海には39種分布している。正式には「カレイ目カレイ科」。似の島回りには同属の「マコガレイ」「メイタガレイ」「ホシガレイ」が生息している。

 多くは沿岸帯の砂泥底でまわりの色調に合わせて体色を巧みに変化させ。気付かずに近づいてくるゴカイや小エビ類を飛びついて捕食する。忍法砂がくれの術とでも言おうか。
 

カレイはヒラメの家来?

 鰈鰓(カレイ・エラ)にうっすらと忘れ砂(魚風) 江戸時代の俳人の句が面白い。

 世界中に広く分布している魚だけあって、日本を始め、諸外国においても古くから親しまれ、さまざまな伝聞や記述が残されている。

 ギリシャの哲学者プラトンは「その扁平な半身状の体形から別れた一方を捜し求めて泳いでいる」と奇妙奇天烈なことを言っているのをはじめ、中国の伝説の中にも「もともと一匹だけだったものが引き裂かれ、半身ずつに離されたため何時も半身を求めて泳いでおり、めざす分身が見つかると目のない側をくっつけあって暮らす」と孔子様だかどなた様かがのたまわれたという。

 日本でも、江戸時代の古典落語に、物知りの先生がヒラメの名の謂れを聞かれ「平ったいところに目があるからヒラメだ」と答えたが、それでは、カレイは、と聞かれて名案が浮かばなくて切羽詰まった先生は「カレイはヒラメの家来だから家令をしているのだ。だからカレイだ」といったという噺がある。

 南区の仁保から丹那にかけて「カレイかわいや背に目がついて親を恨んだそのバチに」ということわざが残っている。

 子供の頃、釣りや漁火漁で、カレイを獲って帰ってきた親父からよく聞かされていた。夜になって煮付けにしたカレイの目を箸で押さえ、もう一度同じことを言われたのを思い出す。もう70年も前のことである。
 

フィガロの結婚が取り持つ縁

 モーッアルトとカレイの間には何の繋がりもないのだが、偶然に前日Kさん邸で聴かされたオペラ「フィガロの結婚」序曲K492が両者を取り持つ縁になったようである。午後、珍弟子同士はそこはかとない幸せを噛み締めながらKさん邸に帰り、豪華なオーディオから流れるピアノ協奏曲第21番ハ長調、K467第1楽章の旋律に酔いしれていた。
 
 
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