●生態系・里山・里海−森林
2001年9月 垂穂号
 ついこなぁだまで、
   わしらの川の源は、ふかぁーふかぁー
     ブナの深山(みやま)じゃったんで その1
            田中 幾太郎さんにきく

田中 幾太郎さん
(ご自宅にて)

田中幾太郎さん プロフィール

1939年生まれ。島根県益田市在住。
日本動物学会、島根県野生生物研究会、郷土石見研究懇話会会員。
幼いころより山猟師であったおじいさん(祖父)から、里人たちが営々と守ってきた、人と自然との関わりの知恵や「民俗の不文律」を学ばれる。それを立脚点に、半世紀にわたり西中国山地や石見地方の自然を見守ってこられた。
著書に、「消えゆく六日市の野生動物」(自費出版)、「山陰化石物語」(共著・たたら書房)、「渓流魚づくし」(共著・筑摩書房)、「いのちの森 西中国山地」(光陽出版社)。


 この土地に人間が住みついてこのかた、とうとうと暮らしを、文化を育んでくれている太田川。その太田川の水のふるさと―西中国山地。西中国山地は、太田川だけでなく、山陽側では山口県の錦川、山陰側では日本海に流れ込む、島根県の高津川の源でもあります。陰陽の多くの人々や生き物たちの生命を造り、支える西中国山地。太田川の水を頂く人口だけでも180万人とも言われています。西中国山地なくして、私たちの存在は考えられません。
 しかし西中国山地も、この数十年の間に、わたしたちの生活の変化に歩調を合わせ、急激にその姿を変えてきました。およそ半世紀にわたり、変化を目の当たりにしてこられた野生生物研究家の田中 幾太郎さんに、太田川・高津川・錦川の最初の一滴を生んでいる西中国山地の最奥部がどう変わってきたのか、そしてこれからわたしたちは何を考えていかなければならないのか、お聞きしました(二回シリーズ)

 

それはそれは深ぁー森じゃった
 
 わしがはじめて県境の深山(みやま)に入ったのは、昭和29年のことです。昭和29・30・31年、高校1年から3年のときに昆虫採集で歩いたんです。まだ西中国山地は、植物とか昆虫の採集があまり入ってなかった。珍しい植物や昆虫がおって、いまでは考えられんほど深い山じゃったですよ。広見から、横川越を通って、細見谷へおりて、そして越峠を越えて二軒小屋へ抜けました。横川越は今もある道ですが、広見の人も「道あけ」(道の手入れ)をするし、二軒小屋の方、古屋敷からも「道あけ」をして、大変大切にしとった往還道だったですよ。
 
 そりゃあ、あの当時のあそこらあ言やあちょうど伐採や道造りが始まっちゃあおったけど、そりゃあ本当に深ぁー深ぁーところじゃった。県境の一帯は、谷底から尾根まで大変なブナの森じゃった。中国山地には、根県側にも広島県側にも、1950年代まで、よほどの猟師でなけにゃあ、そこへ入る必然性がない、本当の奥山、深山というのがあったんです。わしらが昭和29・30・31年に歩いて、今でもよう覚えておりますが、とにかく深い、それまで営々と全く人の入らんかった森があった。
そりゃあ、匹見から吉和に越す山道の往還道はありましたよ、あったけど、今の林道のような格好で、奥山が人の影響を受けるようなことはなかった。標高800メートル以上のところには、ブナやアシオスギの原生的自然林が広大無辺に残っていた。それより標高の低いところは、トチやサワグルミなんかが中心ですが。今の人はそれを知らんけえ、吉和にも戸河内にも本当の奥山はなかったんじゃと言いますが、あったんですよ。
 
 ちょうど同じころ、樽床の集落がダムに沈められる前に、農協の二階に泊めてもらったこともあります。
あのころの樽床の集落は、上の八幡からつながっとって、桃源郷だったですよ。今時分の夏だと、ユウスゲの花が咲いて、その上に苅尾山があって、それから、三段峡があって、楓林館という、猿飛の二段滝に近いところに旅館がありましたが、そこを通って、古屋敷に入って泊めてもらって、牛小屋高原にあがりました。牛小屋高原は引揚者の方々が開拓に入って、和牛の放牧をしとりました。

 わしが初めて西中国山地に入ったころが、ちょうど拡大一斉造林のための林道の開設や伐採が始まったころじゃった。ブルドーザーというものがちょうど西中国山地に入りかけたときじゃないですか?いまの十方山林道、細見谷の方は、道はブルがあけたんじゃろう、何も通らんような、開けたばっかしの道が水越から、古屋敷につながっとった。細見谷から水越峠にかけて、林道を造る工事が始まっとって、それが今の林道になっとるわけです。じゃけえ、始まりは昭和26年ごろでしょう、今の十方林道の形を造り出した。
そして島根県側の一部や、広島県側では水越峠のまわりから、十方山にかけての斜面では伐採が始まっとったですが、それでも細見谷のほうはブナの森で真っ暗だった。その中に、掘っただけのような感じの林道がついたばっかりじゃった。
伐ったブナは出してチップにしとりましたが、伐った後にスギやヒノキを植えていくわけです。高知や和歌山の山師さんが入って、飯場を作ってやりよったですよ。拠点拠点は山師さんの飯場があって、炊事をする女の人もおったりして、…。当時奥山の山仕事いうのは、高知とか和歌山とか、あのへんからじょうに(たくさん)来てやりよったです。

 それから当時、内黒峠から古屋敷におりて来る道を造りよったですが、まだ完全には通れるようになってなかった。そして、戸河内から索道いうものがあって、物資を古屋敷へもっていって、古屋敷の方からは炭を焼いたりして出しよったですよ。索道いうのは、島根県側にもあったですが、益田から、匹見、道川に、炭や枕木を運ぶのに使った、広島県側にもあったケーブル架線ですよ。
 
あれよあれよと言う間に上から下まで人工林に変わった
 
 細見谷のブナ林  
 西中国山地というのは、太古の昔から、深山が1950年代まで続いてきておったんじゃけど、山が老年期で、侵食が進んだ、準平原化された非常になだらかな山だから、1950年代後半からの山地開発に一番手をつけやすい山だったわけです。最初に、西中国山地は山が優しいから林道を開設しやすいから、どこにでもと言うわけじゃないけども、ブルドーザーが入り始めて、林道が開設された。広見の方からも、「御境」(島根・広島県境)のほうへ、吉和に抜けてはおらんかったけど、トラックが通れるぐらいの道が昭和29年にはできとったですから。林道の開設が始まって、それにあわさって、架線ができて、同時にチェーンソーというものがものすごいスピードで山を開発できるようにしたんです。チェーンソーが始まったのは、昭和で言やあ、30年を超えてからですけえ。
 
 まずブルドーザーで林道ができて、それから架線が入って、でもまだ木挽きがおって、当時「改良刃」というのがあって活躍しとったですが、地元の者は、なぁにこの山ぁ、10年や20年で伐れるもんじゃなぁ、いうて言いよったですよ、それが、あれよあれよいうまにチェーンソーで、伐られてしもうた。
吉和冠山の近くに、広高山いうのが県境にあります。この広高山の周辺は、それは莫大な原生的自然林だったですよ。この山口・広島・島根の広大な県境のブナを中心にした原生的自然林に、三葛から広高山に登ろうと思って、昭和32年に行ったんですが、高知県の山師さんが中心になって、大変な人数でこの山を伐り出しよった。当時は、まだチェーンソーは数が少なかって、木馬道(キンマミチ)が使われとった。そこの地元のおじいさんが、ありゃあ何十年かけても伐れるもんじゃなぁ、いうて言いよった。それがものの三年ぐらいの間で全部伐られてしもうた。これは、広島県側の吉和の方も、みな同じじゃないですか。そのあとが今の人工林になっとるわけで、上から下まで年中真っ暗い人工林になった。
 
 皆伐が進む
西中国山地
   (田中幾太郎さん撮影)
 ただ、ところどころに点や線でしかないですが、伐り尽くされなかった原生的自然林が残っとります。広島県側で言えば、細見谷の谷底や、山口県と島根県の県境の、川の源流の深谷、これはカシとかの常緑広葉樹が主体ですが、自然林が残っとる。これは残したというより、とてつもない広い拡大造林の面積があるんだから、谷なんかのごろごろしたところをいらうことは必要がなかったんだと思います。どこでもそうですが、谷底の急峻なところなんかの作業のしにくかったところに、自然な植生が今もって残っているところが多いですよ。そういうところへ、猿なんかというのは逃げ込んで、猿域というのをつくっとる。野生生物で、山の開発と一番最初に厳しく対面したのは、猿でしょうね。猿がそういうところへ逃げ込んだですね。
 
ツキノワグマのこと

(編集部…西中国山地を代表する野生動物にツキノワグマがありますが、先日も太田川の中流で釣り人が襲われるなど、人里での被害が深刻化しています。)

 わしは長いことツキノワグマに関わってきましたが、いまの状態は、本当に頭が痛い問題です。1950年代までの、西中国山地の、標高が800メートルより上の山を中心にした原生的自然林の中だけでずーっと生息して来た本来のツキノワグマと、今のツキノワグマは違うんですよ。前にも言ったように、西中国山地には、1950年代まで、本当の奥山、深山というのがあったんです。よほどの猟師でなけにゃあ、そこへ入ることのなかった奥山があって、こんなら(クマ)は、そういう奥山で棲息する習性というものをちゃんと続けてきた。
 じゃけど、考えてみんさい、わしら人間の生活の在り様は、この五、六十年の間にものすごい変化したですよ。歩いて三段峡の方まで行きよったのが、今は自動車で入る。山へ行くときに食べる物でも、飯盒とお米、とは佃煮と漬物を持って行って、それでもご馳走だと思って食べよったのが、いまはほんと、大変な飽食の時代ですよ。そういうわしらの生活の在り様の、「文明大革命」ちゅうものが、この狭いところでわしらに接しとる野生獣というものに大変な影響を与えんかったはずはないんですよ。いまは、吉和のクマも、匹見のクマも、広島のクマも、みんな同じですよ、広島の市街地にでも、わしらの里山の方にでも、出てくる。このへんのツキノワグマは全く習性が変わってきとるんですよ。

「深山グマ」から「里グマ」へ、「里グマ」から「平成グマ」へ

 本来は、三十年ぐらい生きるクマですが、いま西中国山地を中心にして、里へ出歩いていろいろな社会問題をおこしよるクマなんかは、なんぼうとっとっても、七歳とか八歳。その間に、やっぱり駆除されたりするわけで、ずーっと長生きできとるクマなんかおりません。長くて七年、八年。大体五、六年で、サイクルが交代するんですよ。そういう今のクマを考えてみんさい、七、八年前に生まれたとき、その自分を生んでくれた母グマといっしょに、どこで学習してきたか。生まれたときに、母親といっしょに育ったところは、せいぜい里山、そして、母親といっしょに餌を採ることを覚えたのは、柿園や、栗園、蜜箱とかそれから、残飯とか、ほんと、人間の暮らしに非常に近いところで学習を積んできた、そういう習性を身につけたクマを、わしらは「平成グマ」いうとります。わしら人間だけじゃない、わしらに接しとる野生獣はすべて習性が変わってきとる。金太郎の、足柄山のクマとは全く変わってきとるんじゃけえ。イノシシでも、タヌキでも、キツネでもみんな同じなんですよ。

 昭和29年当時、匹見の方でも、戸河内の方でも、猟師の人らに聞き取り調査をしましたが、クマが出てくるなんちゅうことは全く聞いたことがなかったですよ。匹見なんかの住民は、クマが住んでいるということさえ知らんかった。よほどの猟師でなけらにゃあ知らんかった。それだけクマの生息は、標高800メートルから上の、ブナを中心にした、原生的自然林だけに限られとった。里山へ、なんちゅうことは、めったになかったです。
そこへ、ブルドーザーが林道を開設し、架線を張って、チェーンソーで皆伐して、拡大造林をやったから…。人工林にみな変わったということはいろんな意味があって、一つは、ああいう大型獣というのは、わしらに家が必要であるように、深い広葉樹の森が自分らの家なんですよ。餌だけの問題じゃないんですよ。森があることイコール彼らの生息環境の基本なんですよ。その森には、冬場に入る大きな穴を提供してくれる、木がある、そして、四季を通して餌を提供してくれる森がある、そういうことが必要なんです。 ほいじゃが、彼らは1950年代後半から生息環境の悪化・破壊を受けるようになりましたが、すぐに、それなら、というんで、下へおりてきたんじゃないんです。我慢して我慢して、やっぱりそれでも残っておったわけです。

(同席された吉和村の方…五十代男性・わしらが子供の頃は、里にはおらなんだですよ、話も全然聞いたこともなかったし。)
 
 ニホンツキノワグマの幼獣
(生後二ヶ月)

 普通
雌雄二頭を産む
(田中幾太郎さん撮影)
 吉和の女鹿平山でも、あそこを昭和40年代には全部伐ってしもうたですが、それでも、里へはクマはおりてこんかった。我慢して我慢して奥におったんですが、どうしても山におれんような付加的な状況の変化がおこったんです。

 たとえば、養蜂ですが、1960年代より以前の養蜂というのは、レンゲとか、菜の花とか、田園地帯でやっていた。ところが、1960年代のなかごろになると、山の木の花から集める蜜のほうがええ言うて、今の時期でいやあ、リョウボという木の花が咲いとるけど、蜂業者が林道を使って、谷の奥まで西洋ミツバチの蜜箱を置いた。結果的に、クマを誘い出すようなことをした。
そして、里山にはそれまでなかったような、栗園や、柿園ができるようになった。クマを誘い出す要因が、1970年代に完成したわけです。それで、クマも1970年代には、里山へおりてくることが、「常識」になった。わしらはそれを「里グマ」と呼んどりますが…。「里グマ」傾向というのは、決してすぐおこったんじゃないですよ。1970年代から1980年代におこった。

 そしてその中で、習性が固定されて、もう里山から里だけで、回遊するようになった、「広島グマ」とか「益田グマ」が、1990年代に定着した。そして、いま、2000年、クマの習性というのは全くもとに帰ることはない、「平成グマ」になってしもうた。山の環境の変化から大体、十年から、十五年ぐらいの遅れで、クマの習性の様変わりがある。「深山グマ」から、「里グマ」、「里グマ」から「平成グマ」、決して遺伝子は変わっておらんけど、彼らが後天的に身につけた習性いうのは、取り返しのつかんほど変わってしもうた。そりゃあ、戸河内の方でも、山にクリを植えたり、ナラの木を植えたり、呼び戻す作戦を展開しとるけど、それで、クマを奥山に返すことに成功するか言やあ、そんなことはないと思います。

 本当にクマが「平成グマ」になって、人間の家に入り込むようになった。「平成グマ」というのは何がいかんかと言えば、まず精神的な被害ですよ。家の中に入ってくる、人間を見て逃げんようになった、そういう精神的被害が大きい。

 人間の生活の変化が野生動物に与えた影響いうのは、種類によってそれぞれ違っています。たとえばイノシシ、これは藪の動物なんです。山里いうものが、休耕田なんかで、荒廃してきて、山里から里が非常に荒れてきたですよ。ほいじゃけえ、猪にとっては、生息の環境条件がかえってようなったわけです。それで非常に繁殖して、増えとります。同時に、習性も変わった。猪なんかわしらが小さいころは絶対に人目にでてくることはなかった。深いところに隠れておったですよ。いま畑をやっとっても、猪が、道路をまたいで出るようになった、トウモロコシもみなやられるようになったですよ。

 でもクマの場合は、本来の生息環境を考えた場合、人間が残飯は投げるし、柿園でも栗園でもあるからいま里に餌がいっぱいあるいうても、彼らが将来増えることのできるような生息環境だということは全くないと思いますよ。クマが市街地に拡散してきとるということは、やっぱり絶滅していく、大きな前兆でしょう。ここら(益田)でもクマが町で何回も人目についとりますが、決してイノシシのように増えよるわけではない。
 
クマに越冬穴を提供してくれる
トチの大木

 地上10m
ぐらいの樹洞
(田中幾太郎さん撮影)
 
それでも「深山グマ」は残っている

(編集部…人と何らかの接触があったクマを捕まえて山に放す「奥山放獣」という方法がありますが、あれは放してもすぐに里へおりてくるんですか。)

 そうです。そう考えりゃあ、クマの将来いうのは絶望的ですが、唯一の希望は、わしらも歩いてみて、それぞれ点と線でしか残っとらんけども、西中国山地には、ブナを中心とする自然林が残っとるところが

 
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