上関原発計画を
  国の電源開発基本計画へ組み入れ
2001年6月 若鮎号 「オヤ??ニラミ」より


 電源開発分科会(経済産業相の諮問機関)は五月十六日、中国電力の上関原発建設計画の事業着手を了承した。今回は、この問題について、「猿猴川のカッパ」(ペンネーム)さんよりお便りが寄せられたので、ご紹介します。
 

 だれのための電気?―
 
 ぼくはテレビで上関の問題が出ると、胸が締め付けられます。原発ができたらその電気は僕らが使うことになるんですよね。多分計画書にも、「電力の需要の増大に応えるため」とか書かれるんでしょうけど、この辺で一番電力を使ういうたら広島近辺です。だから言ってしまえば、僕らのせいで、上関の人々が賛成・反対で苦しんだり、大事に守って来ちゃった漁場を奪われることになるんじゃないですか。それに事故が起こったら、もう上関では永久に生きて行けんようになるでしょう。もっともチェルノブイリから考えると、広島でも生きて行けんようになるのは間違いないですが…。

 僕らはそうまでしてこれ以上電気が欲しいんですかね。まわりを見ても電気が無うて困っとる人もおらんし、逆にテレビのコマーシャルなんかもっと電気を使いましょう、と言うとるような気がします。僕らの年代のやつらは子供がおらんのも多いし、人口も少しずつ減って来るんじゃないですか。
 
 なんのための原発?―
 
 僕は旅が好きで、十年程前に原発銀座・若狭湾の漁村を歩いたことがあります。そのとき漁師さんらが言いよっちゃったことで、耳にこびりついて離れんのが、「あんたらに道をつけたりできるか?漁で飯を食えんのに何とかしてくれるんか?別に原発なんかいらんけんど、道路は欲しいし生活していかなあかんさかい。」という言葉です。僕は都会育ちじゃけえ返す言葉がなかったんですが、何十年も前から、都市や工場なんかが大きゅうなるために、農村や漁村からいろんなもんを吸収してきたわけですよね。それで過疎になって不便で苦しんどられるところへ、その苦しみを利用するような感じで、交換条件と引き換えにもっと自分らの思うようにしよう、そういうやり方に腹が立ちます。そもそも道路建設や漁業を護っていくことは、原発とは何の関係もないじゃないですか。
 
 山口県知事は条件付きで建設を容認しちゃったですが、僕はあのときの苦虫を噛み潰したような表情を見て、「この方は本当は原発なんか欲しくないんだ。」と疑ってます。それでも認めざるを得んのは、今のところ、建設と引き換えに与えられるモノ(「過疎地の活性化」・「地域振興」)を乗り越える価値観とか具体的な代案がないことを物語っとるような気がします。いまは物が有り余っとるけえ、公共事業が、それが本当に必要で安全かどうかはおいといて、「活性化」とか「地域振興」という名目で進められとるようですが、結局は、都市とそのまわりの一方的な関係がますます進むだけじゃないですかね。

 街の方では、どんなにマスコミが煽っても消費も景気も上向んし、工場閉鎖やリストラも当り前になっとる。これは、「永遠に膨張を続けたい」という今までのやり方がもともと無理があったという事を意味しとるんじゃないですか。歴史いうのは膨張があったら必ず縮小があるけど、今丁度その転換点にあるんじゃないですか。その転換点に、半永久に莫大なコストのかかる原発のようなものを造るのは考えものじゃないですかね。それより、今までのことをよく見直して、これからどう縮小していくか、都市と農山漁村の略奪関係のようなゆがんだ形から抜け出すか、そっちに知恵を絞るべきじゃないですか。僕もそういう仕事をしたいんですが、職安では、とにかく生活せにゃあいけんけえ、なんでもええけえお金が欲しいという刹那的な雰囲気も感じます。うわついたらいけんけど、急いでいろんなことを考えていかにゃあ、と思います。
 
「ヒロシマ」に原発?
 
 それから、世界で最初に「核」を体験した土地に住んどる僕らが原子力で出来た電気を使っとるいうことに、なんか違和感はないですか。難しいことはよう分らんのですが、「軍事利用」とか「平和利用」いうのは、どうも言葉の上の区別に過ぎんような、根っこは同じような気がしてならんのです。

 偉そうなことを言うてしまいますが、やっぱり「ヒロシマ」から、原発と無縁な社会づくりを具体的に提案していかにゃあいけんのじゃないでしょうか。それはどういうことか言うと、今の、石油を中心とした「地中に埋まっとる物をたくさん掘り
出してお祭り騒ぎを続けよう」というやり方からおさらばすることなんじゃないですか。結局「核」いうのは、その考え方の行き着く先だったんだと思います。
「猿猴川のカッパ」(三十歳 フリーター)
 
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