太田川水系の生き物たち−昆虫− 2006年11月 第67号

(1)ヒメサナエ
〜清流の舞姫〜


 広島県には池や沼などの止水域に6種、渓流や川などの流水域に14種、合わせて20種のサナエトンボ類が分布しています。太田川水系の流水域には、県下では芦田川河口部だけに見られるナゴヤサナエを除く、残り13種すべてが生息していて、いずれの種もきめ細かい斑紋が美しく、お洒落で端正な装いをしています。
 ヒメサナエはトンボ目サナエトンボ科に属し、本州、四国、九州に分布する日本固定種です。オジロサナエとならぶ小型種で、体長は40〜43cm。その和名の漢字表記は「姫早苗(蜻蛉)」、つまり「早苗の時期に現れる、小さなトンボ」という意味です。しかし、本州と渓流で出会う機会が多いのは、繁殖活動が最盛期を迎える7〜8月上旬にかけてです。成熟した成虫が山地の渓流域に限って繁殖活動をする種としては、本種の他にクロサナエがいます。他にダビドサナエやオジロサナエなども川の上流域で見られますが、これらの種は山地の渓流に限らず、より下流の開放的な流水環境にも現れる点で、本種やクロサナエとは異なります。

 華奢な体つきに似合わず、ヒメサナエは驚くほど川の広域を利用します。6月上旬〜梅雨の頃、幼虫は中・下流域で羽化を始めます。そして、新成虫は上流へと川を遡上しながら次第に性成熟をすすめ、梅雨が明ける7月下旬には山地の渓流域に到達します。成熟したオスが渓流の石の上に静止し、交尾の機会を待つ光景に出会うのがこの頃です。交尾を終えたメスは流れが緩やかな浅場に飛来し、単独で腹端を水に打ちつけながら産卵します。上流域でふ化した幼虫は、川を下りながら成長し、やがて中・下流域で羽化の時期を迎えます。ヒメサナエは、たとえ水質が清浄であっても河口までの距離が短い川には生息しません。本種の産地が局地的なのは、上流域から中・下流域におよぶスケールの大きな生活を支えることが出来る川そのものが限られるからなのでしょう。ヒメサナエの存続は、「限られた流域」ではなく「水系全体」の環境保全によって維持されるといえるのです。かつて、細見谷川(廿日市市)でのヒメサナエとの出会いを今でも鮮明に記憶しています。1996年7月26日正午頃のことでした、ファインダーを通して見たその姿は実に可憐で美しく、時折の仕草がなんと愛くるしかったことか!

(写真・文 坂本 充)
 
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