私の瀬戸内海探訪の歩み 景観写真 脇山 功
2005年 環・太田川第5回総会記念講演

古来より、瀬戸内海は潮の回廊とも云われてきた。

 私は1953年(昭和28年)瀬戸内海の中央部愛媛県の燧灘に浮かぶ周囲4キロほどの小さな島で生まれ育ちました。4キロと言うと、宇品港の沖に似島というのがありますが、似島の3分の1ぐらいの小さな島です。中学を卒業するまで15年間、そこで暮らしました。私が中学校を卒業する頃は島の人口が30人くらい居ましたが、現在は一家族2人になっています。今後は、各地の島で過疎と高齢化で無人の島が沢山出てくると思います。

 私の小さい頃は、島の大半は、山の頂まで耕して段々畑をつくって、イモ・麦・除虫菊などいろんな農作物を作っていましたが、昭和40年代の後半からミカンが増えて来て、ミカン一辺倒の島になって行きました。

 農家の人もミカンを植えれば島での暮らしも良くなるだろうということでミカンを植えたのですが、あまり良くならなくて近くの造船所とか、工場に働きに出ました。


 よりお金が儲かる方へ行くのが人間の常ですけどね、そうなると海も汚れてきます。

 私は中学校卒業と同時に集団就職で関西の方へ行って向こうで定時制高校を出て、広島へ来ました。

 その中学を卒業する直前の頃、近くのコンビナートから大量の油が流出して、ある朝起きてみると、島の周りに魚が腹を上にして、延々と真っ白になって浮かんでいる。これは、どうしたことかとその時は分からなかったんです。
 
 まだ活きの良い動いている魚は、晩のおかずになると思って、学校へ行くのをやめて集めて持って帰ったことを鮮明に憶えているんですね。当時の私の知識では、これがコンビナートからの有害なもので魚が死んだなどとはぜんぜん思わなかったんです。何らかの原因で死んだというのはわかっていても、魚が沢山捕れること自体がうれしかったんで、急いでもって帰ったのを憶えています。

 そのような体験の直後に島を後にして、関西に行き、広島に来てしばらくして父親が他界しました。

 その頃からだんだんと瀬戸の小島が懐かしくなって、島でのかつての思い出や、美しい風景を探し求めて歩き始めました。これが約20年ぐらい前のことです。土曜、日曜、休みの日にはカメラを提げて瀬戸内海各地のあっちこっちを歩いて回ったのですが、どこへ行ってもだんだん失望し始めました。

 失望したというのは、風景的に昔の牧歌的なのどかな風景と言うのはほんの一部を除いて無くなっていたんです。これが瀬戸内海の現状なのか…では、せめて残されている風土や自然を写真に撮って残しておきたい、そのような思いが日に日に募ってきました。

 そして10年くらい前に、その思いが変わった時期がありました。今日は、なぜ想いが変わったか?なぜ現在、私が皆さんの前で話をさせて頂くようになったかを話をさせていただきます。
 
 この写真は、愛媛県と九州を結ぶ海峡、豊予海峡ですが、瀬戸内海を出入りする潮の約80%くらいはこの海峡を通って出入りしているらしいんですが、私は10年前にこの場所に朝日を撮ろうと思って行きました。

 海峡に着くと、潮が、太平洋の方から音を立てて瀬戸内海の方へ流れ込んでいました。その潮の流れが、太平洋の方から一番速い時に地の底からゴーッという音とともに流れるんです。瀬戸内海にこんな風景があるのか?こんな現象があるのか?と大変に感動しました。

 川を見ると、水が流れるのは当たり前なのですが、瀬戸内海は時間によって、潮の流れが急に早くなったり遅くなったり、流れが逆になったりするんです。これが瀬戸内海の出入り口の流れか、この日はこの風景に見入ってしまって「自分は瀬戸内海について何も知らなかったんだ」という想いが新たになりました。

 
 この写真は、皆さんから見るとただの潮の流れかもしれませんが、私にとって、瀬戸内海で一番好きな場所になって来たんです。何故かと言うとここは古代からの神話の話も沢山ありますし、神武東征とか、関アジ、関サバが美味しいとか、瀬戸内海を知って行く上での、出入り口であると同時に原点だなと言うのを感じています。今でも私は年に2〜3回は行っています。

 瀬戸内海の潮流は豊予海峡と、東の方は紀伊水道からも入って来て、真ん中あたりの芸予諸島あたりで、ぶつかって分かれてまた引いていく、その繰り返しなんですね。満潮干潮はあるのは私も知っていましたが、これがどんな影響を瀬戸内海に与えているんだろう。

 生きものとか人の営みにどんな影響があるんだろうということに興味が湧いてきました。

 広島県の蒲刈沖に現れる潮流なんですが、ちょうど宇宙の大星雲」のような渦が出来る時があるのですが、このような現象が現れることを産業技術研究所の方から聞いて何度も、セスナ機でフライトして、やっと撮れた写真なんです。この渦を、セスナ機から見たときには、こんな現象が瀬戸内海に起きていることに感動して、ますます潮流の魅力に取りつかれました。
 

 少し解って来ると、潮の流れによって、大きな砂州が出来たり、島が陸続きになることも知りました。また、どんな生き物がいるんだろうという思いが出て来て、今度はセスナ機と同時にダイビングでも海の中をのぞいてみるようになりました。

 好奇心にかられて、休日や仕事が暇なときは、潮汐表や、海図を片手に各地の海に行き、家庭を顧みず、瀬戸内海の潮に没頭してゆきました。
 
 小豆島の土庄町の近くに出来る干潟ですが、こんな広大な干潟が残っている場所も知り、納得の出来る写真が撮れて大変うれしかったんです。こんな場所は小豆島のパンフなどには載っていませんが、自分で歩いてみて、まだ瀬戸内海には、自然が多く残っている、次の世代にも残してあげたいとの想いが湧いて来たんです。

 このような「泥併地」の沖合にはアマモという海藻が生えているんですが、アマモ場は、魚の生命の揺り籠だと言われていますが、こういう場所が一時期減ったのですが、最近は少しまた戻ってきました。

 このアマモという海藻は珍しく6月下旬くらいにかけて花が咲くんです。海藻で花が咲いて増えていく実に珍しい海藻ですが、本で調べると随分遅い時期まで陸上に残っていた植物らしいんですね、その名残があって花が咲くんですね。(海藻・海草)二種類あります。

 
 アマモの花が咲いている写真を撮るというのは、時間的エネルギーと体力的エネルギーが必要で、1年の内1週間くらいしか咲かないんですね。年によって大分違うんですけど、それを見つけて写真を撮るのは大変根気がいりました。海藻のある場所には、「エビや小魚」が沢山いて、海の環境に重要な役割を果たしているのも知りました。

 アマモは、泥とか砂地に生えるんですが、一方岩場のところにはどんな自然が残っているのかなと言うのも、興味が湧いてきて、各地で潜ってみました。

 白石燈台という宮島の沖にある岩礁なんですが、このあたりでは、ホンダワラの仲間がたくさん生えていました。最近このホンダワラが「磯やけ」という状態で、岩に根付かなくなってきたんです、皆さんもよくご存じだと思いますが、ホンダワラなどはそばによると光合成によって酸素が出来ている。だから海にとっても重要な役割をしているんだなということも解ってきました。

 ホンダワラの周りには、5月から6月にかけて、いろんな生き物が群生している時期があります。こういうのを見ていると、瀬戸内海と言うのはまだまだ捨てたもんじゃないなという気もしています。残念ながら広島湾では、宮島周辺を除いて、あまりホンダワラが見かけません。
 
 この写真はコウイカという体長17〜8センチの小さなイカなんですけど、海藻などに、卵を産みつけているのも分かって来ました。写真は、卵からふ化直後の幼体です。

 瀬戸内海には、コウイカを捕る独特の伝統漁があったんです。イカ篭漁ですけど、今では広島県では、蒲刈と倉橋島でわずか2箇所に残っていますけど、現在残っている伝統漁はどうなっているのか興味が湧いて調べ始めました。

 倉橋島の桂浜で一家総出でイカ篭漁の準備をしている写真です。この家族とは2年位通って親しくなったんですが、実に羨ましかったのは、お父さんが漁の準備をするのに子供さんが出てお父さんの手伝いをしているんですね。今の日本では、子供たちが親の仕事を一緒に手伝えるような環境というのは、実に減ってきたんですが。私はこういう家族が一緒になってものを作ったり、漁をしたり、田んぼを耕したりしている家族を実に羨ましく感じました。

 このような経験を一度でもした子はやはり自然に対する想いとか、親とか、大人と子供の違いとか、いろんなものをじかに学ぶんですが。うちの子供にもやはりこういうことを体験させてやりたいなという思いが日に日に募って、これに近い体験をさせてやりました。

 この女の子でもそうですが「親の働く姿をじかに見る」、というのは実に大切ではないかと感じています。

 伝統漁というのは、実に合理的ではないんですね。手間暇がかかる割合に、イカが沢山取れない、だからだんだん廃れていくんですけど、お金がより儲かるというのは、資源の枯渇が早いともいえます。誰でもそうですけど、より儲かる方になびくのが人間の常ですから。

 一方、こちらは観光的な目的もあるんですが、地引網漁ですね。我が家の子供にもこのような体験をさせたのですが、さっきのような伝統漁を手伝わせようとしてもなかなかできないので、これは山口県の室積海岸で年に2回ほどやっている地引網漁を手伝わせてもらったんです。

 自然界から食べ物を取るのに自分の力で一生懸命やった末、食べ物が取れる。そのような喜びを、体験させたくて手伝わせてもらったんです。

 最後に巻きあげた地引網から取れた魚をみんなで分配して持って帰ってもらう。すごくいい体験をしているなと言う気がしました。

 中には若いお母さんがいて「魚をもらっても、上手くさばけないんで誰かにあげよう」という声も耳にしました。これは仕方がないことだなと思いました。私の様な海育ちの人間からすると、新鮮な魚を持って帰って夜に食べられるというのは、胸がドキドキするくらい嬉しいんですけど。

 伝統漁で、山口県の光市沖にある牛島と書いてウシマと呼ぶんですが、ここに残っている「箱つき」または「メガネ漁」というのですが、箱メガネを使って、海底にいる、タコ、サザエ、アワビなどを捕る漁ですが、この漁が出来るのは、海の透明度が良く、海底に獲物がいけないといけない、船を微妙に操作する技術がいる。三つぐらい条件が必要なんです。

 また、沢山の種類のモリがあるんですが、獲物によってそれをさっと使い分けて獲物を突いて引き上げる。そのような自然の要素と人間側の要素がうまくいってはじめて成り立っている漁だと言えます。

 この方はこの漁だけで家族を育て上げたのです。今の時代には合わなくなって、次第に廃れていっていますが、このおじいさんは80歳近い方ですが、いまでも波穏やかな日には海に出て漁をやっています。
 
 広島県の因島にある箱崎という所なんですが、そこにタコ釣りの名人のおばあちゃんがいて、一本釣りでタコを釣って行くんですが、このおばあちゃんは、永年、海に生きてきた自信と誇りがあるように感じますね。

 最近は写真的には、絵になるおばあちゃんが減ってきまして写真を撮るといっても、なかなか思うようにはいきません。

 これは広島県三原市の筆影山からみる朝霧ですが、先に紹介した伝統漁のような、自然が豊かでないと出来ない漁は、「自然と共に暮らしている海」と、言いますのは、昔の瀬戸内海で、今はほんのわずかになってしまった気がします。
 
 次は少し視点を変えて、瀬戸内海の浦々を見ていきたいと思います。ここは広島県の倉橋島の南西に浮かぶ鹿島ですが、山のてっぺん近くまで段々畑で耕されていっています。

 先日、太田川上流の筒賀の棚田にいったんですが、あそこも同じ状況で、上の方から、だんだん山に戻ってきています。「過疎と高齢化」が山も海、同じ年代で進んで行く、ということを感じました。

 これは5年前くらい前の写真ですが、今行くともっと山の中腹ぐらいまで、山に戻っています。これをみて、段々畑が少なくてがっかりしたと言う人もいましたが…これは江田島の海軍兵学校の近くの津久茂という所で、農業を中心に栄えていった集落ですね。ところが周りはもう原生林に戻ってきています。

 こちらも、倉橋の早瀬というところで、、早瀬の瀬戸の近くですが、さっきと違って、家の集落が海側にずーと並んでいますね。港町として発達した場合は、このような集落が出来ることが多いようです。

 瀬戸内海としては、比較的裕福な集落だったんではないか、ということがうかがえます。と、言いますのは家と家との間が等間隔に空いているこのような場所は、歴史的に見ていくと裕福な村が多いようです。
 
 広島県の能地というところですが、同じ場所なんですが。初めの方は満潮時の風景、次は干潮時の風景、ここは満干の差が3.5mくらいあって同じ所でも風景が一変するんです。

 瀬戸内海は満干の差が大きく、潮の流れがあるからまだ辛うじて海が生きているんじゃないかと思います。豊後水道を通って来る、潮の流れがこんな浦まで影響を与えている事が感じていることです。


 これは山口県の上関、原発予定地近くの村なんですが、もともとこの集落は、さっきの早瀬と同じで、家が等間隔に並んでいます。ここも港町で、北九州と大阪を結ぶ石灰船、一杯船主の集落だったんですが。次の写真も同じ場所ですが、海側が広大に埋め立てられている、そしてその場所が殆ど使われていない。こういう風景を最近各地で目にします。
 
 ここは、広島県の大崎下島、大長ミカンで有名な大長というところですが、家が大変密集していて、山の頂上までミカンを作っています。瀬戸内の、原風景的な場所ですが、ある時期に急に人口が増えた所にはこのような集落が出来ている。何故かと言うと、家が思い思いの方向に向いています。このなかでも古い所はそうでもないですが、急速に人口が増えた場所は家が好きな方向に向いています。瀬戸内海の村を見ていく場合に、そのような家の向きで、ある程度集落の発達の様子が分かります。

 大長は、農業を中心に栄えた島ですが、急峻な山のてっぺんまでも耕して家族を養っていく、瀬戸の島々の先祖の苦労はたいへんだったんだということを感じます。

 港につないでる船は、農船といって近くの島にある農地に農作業に通うための船なんです。この大長から瀬戸内海のミカンは芸予諸島に広がったんですが、この農船によって広がったともいえます。農船も最近では10隻ぐらいに減ってきました。昔は600隻ぐらいあったんです。船の数が減って行くのと、瀬戸内海の段々畑が山に戻って行くのがほぼ一致しています。

 今も、この農船を使って近くの島に農作業に行っている人がいて、二年くらい前に一緒に乗せてもらいました。

 ミカン箱を、二背負って船に積み込んで行くのですが大変な苦労です。私も手伝おうとしてんですが、板がしなって歩けたもんじゃない。一つの箱を持って渡るのが精一杯だったんですが、「危なかっしいけえ、もうせんでもええ」と言われてしまったんですが…

 瀬戸内海の、原風景としての懐かしさとともに、家族を養っていく農家の労苦を厳しさを感じました。

 昼になり、昼食のお弁当は、お父さんのは「日の丸弁当」にサンマが半分だったんです。奥さんの方は、おむすびに「塩っぺ」だったんです。朝早くから、重労働しながら、今の時代だからもっと良い物も食べられるんだろうにと思いながら、昔からずーっとこれと同じ弁当らしんですね。
 これを見て、私は思ったんですが、この人たちが戦後の日本経済の根っこの部分を支えた人たちなんだなあ、決して、こういう人たちを忘れてはいけないんだということを、私はこの時、強く強く思いました。

ついつい「早い・安い・便利」なほうを向きますが、一次産業で活躍している人を忘れてはいけないのだと。せめて記録にだけでも留めておかなければと思いました。
 
 ここから環境問題に触れますが。これは広島市ですが、ここはもともと海だったんですが、今は埋められていますが。こちら側が今、出島沖の埋め立て場ですが、ここへ今度ゴミの処分された廃土を持ってくることになっています。市民が出すごみですから文句も言えませんが、もう少し自然環境に影響が少ない方法がもっと出来ないものだろうか、ということを感じます。

 ゴミの処理とかに、浅い海を埋め立てに使う一方、ここは香川県の白鳥海岸と言う、有名な松原だったところですが、今はテトラポットとゴミで、かつての「白砂松原」ではなく、殆どこのように汚れています。瀬戸内海の海浜の現状です。やはり川もそうでしょうが、海の方も目を向けたくない惨状が各地に見られます。

 これは広島湾にある島ですが、季節風や潮によって打ち上げられるのですが、ゴミをよく見ると、圧倒的に漁具が多く海で生活の糧を得ている漁師さんのゴミが実に多い。意識をちょっと変えるだけでこのゴミの大半は無くなると思うんです。これはカキ筏の残骸ですが、私達もこのゴミの中から捕れたカキを食べている。

 これが「広島の名産」になっている。広島の名産であればまず第一にこのゴミを海にみやみに捨てない、そういうマナーを作っていくことがすごく大切だと思っています。

 広島港の元宇品近くで写したミズクラゲで、12月に写したのですけど、12月になってもクラゲが大量に発生している。これは専門の方々が調べていると思いますが、昔の海だったら、12月にミズクラゲが大量にいるなんて、考えられなかったことなんですが、何か大きな異変が近づいているということを肌で感じます。

 山口県光市室積の近くの海岸に出た赤潮なんですが、近くに大きな工場とか都市がないんですが、最近、山口の大島とか、室積なんかで、赤潮が局地的な発生が増えてきました。

 瀬戸内を「さまよう」ように歩き始めて、潮流と出会い、とりつかれて各地を20年間にわたり、西瀬戸内海の人の住んでいる島は、ほぼ行きました。飛行機代も、ちょっとしたマンションが買えるくらい使って空からも写真を撮ってきました。家族をほったらかして、カメラを持って休みの日は歩きまわった挙句、なにが残ったんだか、残らなかったんだかわからないのですけど。

 去年は「環・太田川」に原稿を書かせてもらったんですが、原稿を書いている途中で、その20年間を振り返ってみると、自分はいったい何をやっているんだろう…空しくなって、もう、イヤになってきたんですが。こんなことにお金を使っていったい、何になるのだろうか。
 女房や子供が土曜日や日曜に「お父さん今週もおらん、今週もおらん」というその連続の中で、私は瀬戸内海に取りつかれて挙句、何もしていない、自分が情けなくなってきました。

 そして9月の下旬に、丁度、台風が来たときに、家のそばの増水した川に「もうこのまま生命が終わってもいいな」という覚悟で行きました。自分の一番好きなカメラ1台持って川の土手近くに行きました。覚悟をして川のそばに立った時、近くにものすごい大きな音で雷が落ちたんです。
 その時、パッと目が覚めて「おれは何をしているのだろう」。まだもう少し頑張ってみようと言う気が湧いてきました。
 私は今52歳になりましたが、職業を問わず50歳前後には、誰でも行き詰まる時があると思います。その時助けてくれるのが、故郷の風景とか自然とかいう身近なものではないかと言うことを感じました。
 あの時、近くに雷が落ちなかったらもう川に入っていたかもしれません。天から、「脇山、もうちょっと頑張ってみろよ」といわれた気がしました。

 以上が皆さんのご期待に添えなかったかもしれませんが、私がこの20年間歩んだ痕跡です。ご清聴ありがとうございました。
 
 
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