三次の蔵いま・むかし  牧江由太 2007年 5月 第73号


 鐡蔵(かなくら)小路ー。三次市三次町を縦貫する旧出雲街道、大歳町から西城川に向かう小径をこう呼んだらしい。古い絵地図や歴史書ではあまり目にしないが、4年前に幕を下ろした「万寿の井酒造」の壁に名残を見た。道路改良の寄付者を墨書したと思われる古びた木製看板にこの小路の名前があるのだ。

 鉄は、コメや木炭などとともに舟運の代表的な積み荷。中国山地で盛んだった「たたら製鉄」の鉄は、西城川を高瀬舟で下って、大歳町で荷揚げし蔵に納めた。そしてまた、川舟や馬で広島の鍛冶屋町に運ばれたのだ。上流の急流「カケハシ(駆け足?)の瀬」では、運搬中に転覆して沈んだと思われるたたら製鉄の半製品「ナマコ」70~80本が見つかっている。

 
 一方、年貢米は、広島東洋カープの梵英心内野手の実家、専法寺近くの「センポウジ濱」で荷揚げされ、三次藩の米蔵に運んだそうだ。今は大通りとなって跡形もないが、街道(三次本通り)から蔵までの道が蔵小路。その米蔵は今、「殿さん蔵」と呼ばれ白蘭酒造の酒蔵になっている。

 鉄蔵の時代から時を経て趣を変えて、酒蔵になってからも、西城川と蔵とのつながりは深かった。山陽よりも山陰側に商圏を広げた三次商人の例に違わず、万寿の井の酒も西城川から舟に積まれ、江の川を下って山陰方面に卸していたという。この舟便は昭和初期まで続いたそうだ。

 蔵人たちは、酒樽を担いで、小路を駆けたのだろうか。川が、生活の動脈として生き生きとしていた頃、蔵も小路も、人の活気に満ちていたような気がする。


 万寿の井酒蔵の廃業後、蔵はまた、変貌の時期を迎えている。肥松の太い梁などの貴重な建築材が残り、蔵にはまだ酒造りの名残がある。だが、3年間ほぼ人の気配が消え、大雪や台風にも見舞われた蔵は、雨漏りが随所に見られ、土壁の崩壊も進んで痛々しい。

 このまま朽ちていくのを待つ可能性も高かった酒蔵は昨年、JR三次駅前で喫茶店「卑弥呼」を営む山崎裕之さん、涼美さん夫妻の手に渡った。周りの人の知恵を集めながら、蔵を育てていきたいのだという。

 山崎さんたちは、大歳神社(三次町)と厳島神社(三次市十日市中)の夏越し神事「輪くぐりさん」(6月30日)に合わせた「蔵プロジェクト」を計画。4月から、近隣の芸術家や地元住民を交えて会議を重ねている。「お宝とゴミは紙一重」をテーマに、家庭に眠る珍品逸品や、古い写真などを集めて展示する予定。芸術家たちも、崩れた壁土なども利用し、アート作品作りに取り組む。

 平行して、蔵の応急手当も少しずつ進んでいる。敷地内に新しく掘った井戸からは、良い水もわき出した。ボランティアでかかわる人たちは「かかわった分だけ、蔵が育っていくのが財産」とやりがいを感じているようだ。僕には何ができるのだろうか。そんなことを考えながら、会議の席に顔を出す。模索状態は、簡単には脱せないだろうが、人の息吹が感じられる蔵の復活を願ってやまない。

(参考文献)
江の川水系漁撈文化研究会「西城川の瀬と淵」
三次市教育委員会「三次町の民俗 県北の商都 三次町」
 
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