●若者放談(17)

 身体に耳を傾けよう 2007年 3月 第71号


 この冬、記録的な暖冬ということで、地球温暖化の影響をひしひしと感じた人が多かったのではないだろうか。アマゴ解禁の声を聞くも釣果はいまひとつとの報道に、それを結びつけてしまうことは別に勘ぐりではあるまい。

 地球自身がわが身を守るために、今の秩序から別の秩序へシフトしているのだ、という説があることを小耳に挟んだ。別の秩序の主人公は、おそらく人間ではないのだろう。

 そんなことを考えつつも、「日常」はめまぐるしく過ぎていく。「暖冬」よりも、「異常気象」よりも、「午後の会議」「明日の締め切り」の方が気にかかるのは、いたしかたないことながら、どうにかならないものか、と思わないでもないのだが。が、そんなことを書き連ねても、「環・太田川」の読者の方には釈迦に説法に過ぎないのでやめておく。

 「日常」に追われる時、もうひとつ忘れられがちなことがある。こちらを話題にしてみよう。それは「身体」に対する意識である。
 
 先日、あるところで「足半」(あしなか、と読む)を勧められた。足半とは、踵のない短い草履の一種で。『蒙古襲来絵詞』にはすでにそれを履いている図があるほど、歴史ある存在である。現在では鵜匠の装束のひとつとして残るくらいであるが、長年日本人に愛用されてきた履物のようだ。

 無知なぼくはその存在すら知らなかったのであるが、これを実際に履いてみると、気づかされることが少なくなかった。

 まず履いて立ってみる。それだけでも前後のバランスが崩れてしまう。前に傾いた身体に苦笑せざるを得ない。さらに歩いてみる。これまたなかなか難しい。

 指導された立ち方、歩き方は、あるいは古来の使い方そのままではないかもしれないが、日常と違う所作を行うことで照らされる日常の姿というものがあった。

 日常の立ち方・歩き方の小さなバランスの崩れが、このようなものを履いてみることで、増幅された形で示されるのだ。

 それは日常における身体に対しての気配りの欠如と言い換えることが出来る。気配りの欠如が、大きな歪みとなってあらわれることもあるだろうし、さらに言えば、本来の人間の性能(という言い方も変だが)を100パーセント発揮できていないことにつながってくるのではないか。

 もし少し身体に耳を傾けてみよう。たとえば、心臓の鼓動、そこから生れる脈拍を感じてみる。横になって目を閉じると分かりやすい。意識を心臓に向けると「トクン・トクン・・・」と確かなリズムが刻まれているのが容易に聴きとれる、さらに脈拍はどうだろう。手首に意識を集中する・・・かすかながらも確かなリズムが聞き取れる。いや、意識される。その脈拍がやがて強まって腕いっぱいにひとつのリズムとして広がり、上半身、下半身へと全身を覆いつくすと、心臓の鼓動と調和した、より大きなリズムとなって響きはじめるのだ。ああ、生体のリズムとはこういうことを言うのだな。思わず呟いて、覚醒する。 

 目を開けば、先ほどまでとなんら変わっていない風景であるはずなのに、なぜか天地自然の見えないエネルギーの存在が感じられ、されにはそれが自己の生体リズムとどこかでつながっている気がするから不思議だ。外に出てみれば、山の表情、川の吐息がより身近に感じられる。削られた山、汚れた川からは、悲しみと苦しみの声が聞こえてこないでもないのだ。

 禅でもそうだが、道教では内観を修業する。「天人合一」という言葉と兼ね合わせてみれば、自らの体の理解はすなわち天(天地自然・宇宙)の理解へと進んでいくのだろう。

 そして、最初の話題に戻るわけだが、「環境」といった大きなテーマに関心を持つ続けることは難しくても、忙しい日常のなか、ふっと自分の身体に耳を傾ける時間くらいは大切にすべきではないだろうか。それが、大きな環境へとつながるルートのひとつであってみれば。

 
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