●若者放談(13)

 琵琶湖の風をよむ?  牧江由太 2006年 11月 第67号


 滋賀県のJR湖西線を旅した。京都から敦賀まで普通列車を使い、のんびりと途中下車を繰り返す。今回は三次を離れ、湖の風を伝えることができれば、と思う。

 小さい頃から乗り者大好き。初めての路線は特にワクワクする。さあ念願の湖西線。琵琶湖の西側は田舎だと思い込んでいたが、住宅地が続く。右手の車窓からは琵琶湖が見えたり隠れたり。湖が一番近づいて見えた「小野駅」で途中下車した。何の変哲もない名前だなあと思ったが、小野篁、小野道風の小野である。

 ホームから湖を見やる。一駅分、湖岸を歩こうと思った。でもいざ歩こうとなるとハードルは高いのだ。企業の保養所やマリーナ、宗教法人の施設がプライベートビーチさながらに軒をつなげ、なかなか砂浜まで足を入れられない。ようやく見つけた隙間を通って、琵琶湖の波を感じた。


 琵琶湖大橋と観覧車が遠くに映える。砂浜では、いろんな蝶やトンボが舞っていた。ゴミが散乱していて美しい砂浜とはお世辞にも言えないが、生物の営みを実感できる。でも、捕虫網を持った研究者の言葉で環境の変化を知った。

 研究者が追っているのは琵琶湖に多いトンボ「メガネサナエ」。他県ではなかなか見られない希少種という。研究者は、琵琶湖でこのトンボの奇形が目立つと指摘する。「汚水が原因で、30匹に1匹くらいが奇形」。琵琶湖では、住民たちの努力で水質改善がかなり進んでいると思っていたが、水質汚濁の根はまだ深いようだ。

 釣り人を見ながら3,4`は、歩いただろうか。次の「和邇駅」に着いた。湖西線には、いにしえを連想させる駅名が多い。駅前のショッピングセンターの喫茶店で軽く昼食を取り、湖北へ向かった。

 湖西線の終点は近江塩津駅。だが、京都を出発して琵琶湖の西を走る多くの列車は1駅手前の長原駅が終着となるようだ。この辺りまでくると想像通りの里山、里湖の風景が広がる。福井方面に向かう予定だが、北陸本線と交わる近江塩津駅に向かう列車との接続は非常に悪い。

 さて、1時間以上の待ち時間をどうするか。こんなときに「レンタサイクル」を見つけるとうれしい。約8キロ離れた漁村、菅浦を目指した。
 

 アップダウンはほとんどない。かつて遠藤周作氏が「フィヨルドに来ているようだ」と称した奥琵琶湖沿いを走るのはやはり気持ちいい。湖西で感じた水の異臭もない。やがて竹生島が大きく見え始めた。ちょうど30分くらいこいだだろうか。菅浦集落に着いた。
 菅浦には、恵美押勝(えみのおしかつ)の乱に敗れた淳仁天皇が住んだという説が伝わる。集落の入り口には、外来者の監視にあたったとされる藁葺きの「四足門」が残っていたり、湖岸に面して石垣が連なっていたり、歴史に思いをはせると面白い町だ。

 不思議だったのが「第16作業所」などと書かれ、工作機械が置かれた小屋。集落内でいくつも見かける。まちの人に聞くとヤンマーの作業所とのこと。天気予報で唄われている「♪農家の機械はみなヤンマー 漁船のエンジンみなヤンマー」とメロディーがよぎり、ごきげんになった。
 

 復路では西浅井町大浦の「北淡海・丸子船の館」に立ち寄った。同町に2隻現存する丸子船のうち1隻が展示されている。

 丸子船は丸太を胴の両側に付けた琵琶湖独特の船だ。北陸と京阪神を結ぶ水上交通の主役である。京都に向かう「下り荷」では年貢米やニシンなど、北陸方向の「上り荷」では陶器や反物を運んだらしい。

 船からは生活のにおいをかすかに感じ取れる。鉄道廃線や、使われなくなった峠の隧道…。かつての人々の活気であふれたであろう交通の名残には、胸がツンとくる。

 興味をそそれられたのは、琵琶湖の風についての説明板。「帆船である丸子船は風の影響を受けやすく、船頭にとっては操船技術はさることながら、いかに天候を読むかが生死を分ける重要なものでした」。それで琵琶湖には「イバ」「サキ」など細かく風の呼び名があるという。夏と冬で出船時間を変えるなどの工夫もあった。

 風邪を読む技術。現在ではなかなか使わない。瀬戸内海にも「キタゴチ(北東風)」「アナジ(北西風)」などの呼び方があるというが、僕なんかは本を読んで知る程度。いざというときに生き残る術は、どんどん失われているんだろうな。自転車に乗って感じる風は、どちらから吹いているか分からなかった。
 
 
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