●若者放談(11)

 「生」という難題  2006年 9月 第65号


 タヒチ在住の直木賞作家、坂東眞砂子氏が日本経済新聞夕刊のプロムナード(20060808)で、飼い猫に生まれた子猫を崖下に放り投げて殺していることを告白し、物議を醸している。坂東眞砂子といえば『死国』『狗神』『蟲』などの作品で知られ、高知県の産まれゆえか、強い土俗的な香りが魅力となって、私など一時期夢中になって読んだものだ。

 氏は糾弾されることも鬼畜と呼ばれることも承知の上とし、次のように述べている。「獣の雌にとっての『生』とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪い取っていいものだろうか。」

 そして避妊手術をすることは「親猫にとっての『生』の経験」を奪うこと、子殺しは「殺されるという悲劇」を意味し、両者とも人間のわがままに根ざすという意味では差はなく、「自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。」とする。
 
 これでは非難されてもしかたないな、正直そう思った。

 思いながら、ふとバリ島での光景を思い起こしたのだった。バリの村を歩いていると、飼い犬だか野良犬だか分からないが、やたらと薄汚く、やせ細った犬によく出会う。足を引き摺っているものも少なくない。逆に日本の飼い犬のように、ブラッシングされた綺麗な毛並みを持つ犬なんぞ一匹も見なかった。私は大いにバリの犬を哀れに思ったものだが、これは日本人とバリの人々との犬に対する生命感の違い、その背後に横たわる人間社会の(経済的な)貧富の差からくるものであろう。文化的な差異ももちろん要因としてあるに違いない。

 バリで知り合った友人スヤサ氏は、数ヶ国語をぺらぺら話すホテルマンで、かなりの知識人だった。私は初対面にもかかわらず、バリのシークレットダンスについて根掘り葉掘り質問した訳だが、最終的に住所を交換し、次回は家においで下さい、と言っていただいた。そして、私は真に不用意に「ぜひ日本にも・・・」と申し出たのだった。そのときの彼の表情は忘れない。一瞬、深い悲しみ或いは諦念のようなものを瞳に浮かべ、「それはできないよ」。十年経った今でもちくりと胸が痛まずにはいられない想い出だ。
 

 話が飛んでしまったが、そのように犬を愛玩することを許されない社会における犬の「生」と、私たち現代日本人が思う犬の「生」は果たして等価だろうか。
犬にせよ猫にせよ、その「生」に対して人間が関与する場合には、人間社会の経済的社会的状況、文化的状況が影響してくる。私にはバリにおける犬の扱いを責めることはできないし、彼らが「生」を軽んじているとも思わない。むしろ彼らの素朴で自然に対する敬虔な行き方は、日本人には到底望むべくもないものだ。彼らは彼らを取り巻く社会にあって非常に「文化的」な生活を送っている、と思われるのだ。

 さて、振り返って坂東眞砂子氏の行為に話を戻したい。氏は日本に生まれ、イタリア工科大学に2年間の留学経験を持つ。現在はフランス領タヒチ在住と言いながら、略歴から見て氏を規定しているのは、やはり日本をはじめとした先進国の文化や社会ではないか。同時にポリネシアの文化、あるいは作家としての鋭い感性によって様々な社会・文化の存在と差異とを感じ取っているのは間違いない。

  坂東眞砂子氏があえて猫殺しを公表したことの裏には、そういった社会・文化の多様性に触れたことからくる「生」の価値に対する疑問があるような気がする。だが、歴史的な堆積である「生」に対する社会・文化的通念に、その枠外の思考をもってきたとしても、それは反発を招く以外ないのではないか。ここに「生」と「生」の価値を形成してきた歴史に対する思いやりのなさを感じ、よけいやりきれなくなるのだ。

 なぜなら氏は、自らが所属する文化圏にあって氏の行為が非難されることを知った上で、これらの行為を発表しているからだ。避妊も猫殺しも「人間のわがままに根ざす」としているが、氏の「わがまま」は、氏の所属する社会・文化・歴史に対するわがままでもある。

 そしてこの問題の難しいところはこういった私の考えもまたあくまで人間本位であり、「生命の本質」とはまったくかけ離れている、ということであろう。
 
 
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