●若者放談(4)

 遊び心を忘れるな 2006年1月 第57号


 クリーン太田川という清掃ボランティアイベント(クリーン太田川実行委員会主催)が毎年開催されていて、かなりの数の参加者を集めていると聞く。ぼくの知人も企業からの依頼で参加しているので、毎年感想だけは聞いている。曰く「ゴミが多くてすごかったよ」「暑かった」……などなど。充実感に満ちた表情ながらも、肝心の川についての言葉が続かない。ボランティアに参加された方々には頭が下がるばかりだが、ちょっと待てよ、と思わないでもないのだ。

 定期的な清掃ではない。イベントなのだ。目的は環境美化であって、その日限りのゴミ拾いではあるまい。川に親しみを持ってもらうことで環境意識を高める、それが環境意識へとつながる。ゴミばかりを追いかけるイベントが果たして川への「関心」「親しみ」につながるだろうか。

 そうじゃないんだ、とぼくなんか思ってしまう。もっと川で楽しもうよ、遊ぼうよ。釣りをするのもいい。網を持ってハヤを追いかけてみるのも楽しいだろう。泳いだり、ゴムボートを浮かべたりするのも楽しいものだ。そうやって、川に遊んでみたら、案外見えてくるものがある。

 いいことばかりではない。素足で川をじゃぶじゃぶ渡ると、足を切ることがある。そういった場合、ガラス片などゴミが原因であることもしばしばだ。釣りをしていて、捨てられた仕掛けに絡まることも少なくない。泳げば目が腫れあがったり、傷口が膿んだりすることさえある。そして本当に腹が立つのだ。

 思えば現在の川で遊ぶことは、同時に腹を立てたり悲しんだりすることでもある。だからといってぼくは川が嫌いになることも、川から視線をそらすこともない。なぜなら、川はそれ以上に楽しいところだと知っているからだ。
 
 ぼくが清掃イベントのどこに注文をつけているか、お分かりいただけるだろうか。「川をきれいに」……お題目はいいのだ。川に親しむ人間は、当然のこととして川を大切にする。だからせっかくのイベントではもっともっと、川を好きになってもらいたいのだ。楽しく遊んでいても腹が立つのに、ゴミ拾いだけのイベントなんて、それこそ腹が立ちっぱなしだろう。それでは、川で遊ぼう、なんて人間が出てくるはずがないのだ。川に遊んで初めて川に親しむことができる。それが高じて川(川辺)に生きる人間が出るかもしれない。
 「川に生きる」といえば、昨年秋だったか、某渓谷で出会ったおっちゃんから、とても面白い話を聞いた。おっちゃんは(詳細は省くが職業柄)川に生きている人間である。ブログにあらかた書いてしまったのだが、ここにも紹介したい。

 そのときぼくはおっちゃんに、オオサンショウウオについて根掘り葉掘り質問していたのだ。「ハンザキ」と地元で呼ばれるこの両生類が、戦前の貴重な蛋白源であったことは承知していたが、食糧難の時代の窮余の策だったんだろうな、と勝手に決めつけていた。生臭くて食べられたものじゃないだろう、と。

 今はもう食べないんでしょう、とはぼくの質問だ。逞しい赤銅色の腕をしたおっちゃんは、ちょっとずるそうに笑った。

 −今も若いもんが集まっては食べとるよ。うまいけえ誰もいわんがの。あれは皮を剥いで臭みをとるんじゃ、生きたまま。やり方はいくつかあるが、一番いいのは、……(ここでおっちゃんは、非常に合理的かつ経験に基づいた具体的な調理方法を伝授してくれたのだが、あえて秘す)。もうひとつのやり方は、……(こちらも伏せておきたい)だが、これは勧められん。暴れて湯が飛び散って、やけどするからのう。−

 そう言っておっちゃんは涎を垂らさんばかりの表情を見せた。
 今にも黒ずんだ渕から浮上したオオサンショウウオを、むんずと掴まえて焚火に放り込んでしまいそうな勢いだ。

 「若いもん」にちゃっかり自分も分類しているな、おっちゃん。だが、それもオッケーだ。太田川に生きる民はここに健在、健啖なのだから。(彼は自分が食べたなんて、一言も言っていないことをここに断言しておく)
 
 もちろん、特別天然記念物たるオオサンショウウオは国に保護される存在であって、実際にこういった行為が許されているわけではない。そんなことはわかりきったことだ。
 
 だが、川は本来、この程度の狩猟を許してくれる豊かな存在だったはずだ。「共生」という言葉は手垢がついているから使いたくないが、このおっちゃんほど川を愛し、川に生きている人間はいない、それもまた事実なのである。たぶん「川を守ろう」なんて千回叫ぶ人間よりもずっと。

 ぼくたちは多分おっちゃんのようには生きられないけれど、川で楽しむことを忘れてはいけない。

 だから、川にいこうよ。
 
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