●若者放談(2)

 「太田川は悪くなった」と云ってみる 藤井直紀 2005年11月 第55号


 「太田川の環境は悪くなった」なんて台詞は度々耳にするが、自分で言うことはないだろうと思っていた。その理由は、私が生まれた1977年は周りに「良き自然」が少なく、比較の基準がなかったこと、地域を見つめることに関心がなかったからだ。それが大学院生になって変わった。研究の場では「太田川流域圏はここ50年間で大きく変化した」なんて発言しているし、環・太田川の紙面、あるいは集まりの場でも同様だ。何故そこまで変わってしまったんだろう。そんなことを私の環・太田川発「若者放談」のデビューテーマとしてみたい。

 1977年。日本赤軍日航機ハイジャック事件があった年だ。スポーツ界では、中野浩一が自転車世界選手権優勝し、王貞治が本塁打記録を作った。一時期年賀状作りに重宝したプリントゴッコ(理想科学工業)や、人気のシリーズもの洋画「スターウォーズ」(ジョージルーカス監督作品)の初回作も世の中に出た。邦画では「幸福の黄色いハンカチ」(山田洋次監督作品)が上映され、高倉健が大ブレイク。キャンディーズが「普通の女の子に戻りたい」と叫び、石川さゆりが「津軽海峡冬景色」を唄う。テレビアニメでは「あらいぐまラスカル」が、漫画では「銀河鉄道999」(松本零士作)、「地球へ・・・」(竹宮恵子作)の連載が開始。懐かしいと感じ方は私よりかなり年上ということになるが、まあそれはさておき、そんな年に生まれた私は、前回の「川のものさし」アンケートでいうところの35歳以下にあたる。

 「デルタのみなみ、雲わくところ・」(広島市立宇品中学校校歌)の宇品に生まれ、宇品で育った私が自然と触れ合うのはなかなか至難であった。特に川・海などの「水際」へは行けなかった。

 近くにある「水際」は、広島湾か猿候川か京橋川。猿候川や京橋川は学区外なので結局広島湾が唯一の水際だった。ところが水際に近づくにはまだ別の壁があった。それはどこからともなく発生した決まり事で、「危険な所への立入や危険遊具の使用は禁止」というものだ。港である宇品の海岸も注意対象だった。釣りぐらいはなんとか出来た。

 更にテレビゲームブームが拍車をかけた。学校での話題は「スーパーマリオブラザーズ」、外で遊ぶ子供は少なくなり、みんなで水際へということは少なかった。そんなことから「水際」と触れ合うには距離があった。

 それでも私は少ない「自然」や「水際」と触れ合う機会があった。
 テレビゲームが禁止されていた藤井家では、暇つぶしは外で遊ぶか本を読むか(勉強するか)しかない。それに家の近くには宇品にはめずらしく(元宇品という大自然は除く)、草木が生え放題の土地があった。宇品池と呼ばれていたドブもあった。それに海から家まで100mもないので行くな!というほうが無理難題。そんな環境がかろうじて私に自然の姿を教えてくれた。

 そんな時代だからおそらく「自然」に触れる機会の少ない私より年の若い街人は、結局教科書・副教材や人聞きの知識でなんとか情報を得たのだろう。あとはレクリエーションとしてたまに行く自然の姿のみである。「太田川が悪くなった」なんて言えるわけがない。


 高校卒業後国立水産大学校に進学し、初めて広島を離れることとなった。水産大学校のある下関市吉見は海に接しているところは宇品と似ているが、裏には山がせまり、自然に囲まれているとの印象が残る点では大きく違っていた。
広島には盆・正月に帰る程度で吉見の自然を満喫しながら、大学校生活はあっという間に過ぎて行った。私は特に研究したいと言うこともなくクラゲの研究をしている教官の元についた。

そんな私と違ってきちんと目標を持って研究室を決めた学生もいた。その中のひとり中田和義さんは北海道出身で、私とは「大学院進学」という目標が一致していたのでよく話をする間柄だった。
彼は地元に貢献できる研究をしたかったようだ。それで卒業研究として始めたのがニホンザリガニの研究だ。ニホンザリガニは北海道と東北地方北部に生息する日本固有種のザリガニで、絶滅が危惧される生物の一種だ。ちなみに我々が太田川で見るのはアメリカザリガニで日本へは1925年に移入されたらしい。
 彼はその後北海道大学大学院に進学し、現在もニホンザリガニの研究をしている。そんな彼の姿勢を見ていると、私の育ちの地「広島」に根差した研究も悪くないなと思うようになった。とはいえ当時、「広島の水産=牡蠣」としかイメージ出来なかった私はそのままクラゲ研究に没頭していった。

 水産大学校を卒業し、目標の大学院に無事進学することが出来た。しかし入学当初は何を研究すればよいのか決めかねていた。卒業研究対象の「クラゲ」にこだわらず、海環境全般を見渡せる研究はないものかと考えていた。指導教官と協議し修士論文研究では、太田川や広島湾について過去に遡ってデータを収集・調査し、変わりゆく内湾の有様を考えてみようという研究に決めた。地元に根差した研究を始めたわけである。

 データ整理や昔を知る方々の会話から、太田川や広島湾は予想以上に変化しており、昔の太田川は私のイメージする河ではなかった。人々はより河を利用していたし、生活を営むことが出来るほどに生物がいた。そんな様子を理解すればするほど「太田川は悪くなった」と言わざるを得なくなった。
 

 「環境」の善し悪しの判断が出来るのは基準を知っていることが前提となる。

 しかし、良き自然を知らない世代がその善し悪しを判断するとき、果たして何を基準にしていけばよいのか。環境問題のゴールをどこに見出すのか。そんな人間が行政執行者になったとき果たしてどうなるのか。そんなことを考えているとなかなか議論がつきない。
 
 
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