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 太田川の河畔から 2001年6月 若鮎号

 
 我が家から5分ぐらい歩くと、祇園水門と大芝水門の見える太田川右岸の土手に出る。目の前には太田川から分水された水が、祇園水門のゲートをくぐり放水路に流れ込み、車の通りの激しい54号線に架かる祇園大橋をくぐり、30米の川巾の流れは南西の商工センターに向う。本流の太田川は大芝水門と水門に沿うように架かる大芝橋をくぐり、相生橋で元安川と本川に分流し、平和公園を囲むように流れ南の河口に向う。

 私は太田川河畔の長束に住むようになって20年以上になるが、季節によって変る川の表情や、鳥たちの変化を見詰めて来た。例を挙げると、ゆりかもめの集団が上手の新祇園大橋の橋梁の下から川巾一杯にV字形に隊列を作り、下流へ向って水面を見事に滑走し、祇園大橋が近くなると滑空へ入り橋を越えて飛び去る。こんな場面に出会うと、鳥の習性と団体行動を見て感心していたのであった。こうした風景も今では見られなくなった。

 とんびの集団の眠り木は無惨に市の河川管理の手で伐られて、とんびが戸惑いながら四散してしまったりと、都市化型へと川岸が変化して来ている。特にこの2〜3年の太田川の異変は、水量が極めて少なくなったせいだろうか、渇水期でもないのに大芝水門一帯が両岸に至るまで干上がって、川床の赤土と小石でグランドのようになり、草までがところどころ生え出している。祇園水門に近い川巾の真中に、ほんとに小さな州が20年前に出来ていたのが、今ではくじら(?)のように土砂の流れで生長して、樹木や雑草が覆っているが、この州の周辺も川床が表われて岸から州へ渡れそうに見える。

 太田川の上流山間地に、最近出来た温井ダムをあわせ四つのダムがあり、15ヶ所の水力発電所は多量の水を使用し、中国地方の電源地帯となっている。さらに75年に佐東町に高瀬堰が建設されたが、この工事に加え可愛川土師ダムから水をひくようになり、太田川は従来の呉地区の給水のほか瀬戸内の島々に、さらに内陸の東広島にも上水を供給している。

 水の利用の増加がますます下流への水量を減じてくるので、川底の土砂を水量の力で流すことができなくなり、堆積した土砂の川底が表われてくるのではないかと、豊かな太田川の流れを見続けていただけに不安な気がするこの頃である。
 
(笛吹き童女)
1999.6.29(雨)   洪水警報、夕方ちょっと止む。太田川はごうごうとゴミを運び波をたて流れている。濁流となって、あの清い川などどこへと…奥山を削っているからだがすごい。夫と昼過ぎに見に行き夕方私一人で行く。なんだかこわくなってリュックに一応必要なものを入れてみる。
 
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