〜台風13号の被災現地を見て思う〜
想像できる恐怖は怖い、
想像できない恐怖は怖くない
2006年10月 第66号
浦田伸一


 平成18年の台風13号の記事を書こうとパソコンに向かうのだけれど、どうしても筆が進まない。この台風の概要は既に新聞等々で報道されている通りであり、巡回中の消防団員の方が川に流され死亡され、未だに行方の分からない中国新聞社の記者さんもおられる。
 私は台風が去った3日後の9月20日に、その時、被害が甚大であると報道されていた太田川支川根谷川と水内川の現状をこの目で見るべく車を走らせた。
 
 まず根谷川へ

 まず向かったのは根谷川だったけれど、TV報道で受けたイメージほど「川そのものがぐちゃぐちゃ」ではなかった。たまたま護岸が崩れた場所が老人ホームの目の前ということで、TVの画面的にはインパクトがあったかもしれない。しかしそこ(広島市安佐北区大林町上大林地区)は国道54号線の旧道沿いであり、実際にこの眼で見ると、いうなればひっそりと崩れていた。たしかにTVでクローズアップされていた老人ホームの関係の方々はとてつもなく怖い思いをしただろうし、駐車場がなくなったり、エレベーターが使えなくなったりして不便な思いもしただろう。また、水内川の道路崩壊の規模は上空から撮影しないと判らないほど大きなものだったのでこれも映像的なインパクトは非常に大きかった。
 
 
 道路崩壊に恐怖

 だけれども私がこの台風で最も恐怖を覚えたのは、根谷川を見た後に赴いた鈴張川、小河内谷川の沿川道路の崩れ方だ。まさに至るところで沿川の道路が崩れ落ちていた。「こんなところに中国新聞北広島支局の松田高志記者は取材に来られていたのか、しかも夜中の10時過ぎに・・・」と思うと、同記者の恐怖に思いを馳せてしまう。場所によっては上流に行けど下流に行けど道路に巨大な穴ぼこが口を開けて待ち構えているのだ。

 現地に赴いた時、平成10年前後の豪雨時(平成11年の6月29日豪雨かもしれないが、恐怖のあまり記憶が錯綜している)での自分を思い起こした。当時34、35歳の私は農業を生業としていて、黒瀬にあった畑から呉の市場にどうしても荷物を届けてくれるよう頼まれていた。そして視界10メートルもないような怒涛の雨の中を車で右往左往した。

 呉に行きつこうと思ってもメインの通りはどこも寸断されていて、普段通らない黒瀬〜熊野〜焼山〜呉の裏道を走った。熊野のひと気のない道を走る時にその恐怖はやってきた。山からは茶色の水が轟々と道を流れている。「崩れないでくれ!崩れないでくれ!崩れないでくれ!」と心の中で叫びながらハンドルを握り、豪雨で見えない視界の先に目をこらした。

 子の記事を今ここで書いているということは、私の車の前後ではたまたま土砂崩れが起きなかった・・・という事だ。何時間もかかったが、荷物も無事届けた。しかし、普段通っていたメインの道路(二河川沿いの道路)は実際に崩れたし、我ながらなんと無謀なことをしていたんだろうと思う。

 そんな経験があるから、私は松田記者の恐怖を想像してしまう。想像すると、とてつもなく恐ろしい。豪雨というものがどんなものか判っているだけに色々な想像をめぐらせてしまってどうしようもない恐怖の念が沸いてくる。

 

 恐怖を知る大切さ


 一方で、津波や高潮に関して私はあまりにも未知で、その恐ろしさが未だに判らない。スマトラ島沖地震の映像を何度見ても私自身には(骨の髄を震わせるような)想像が及ばないのは私がどこかオカシイのだろうか?

 ましてや、イスラエルとレバノンの報復合戦などに至っては、「恐怖感」としてはまったく伝わってこないのである。おそらくこの記事を読まれた戦争体験者の方からはキツイお叱りを受けることは承知の上で書いている。戦後生まれの初首相である安倍氏の会見を聞いても判るとおり、戦後生まれ世代は全く現日本国憲法の重み、崇高さを感じ取れていない。これは、護憲とか改憲とかいう以前の問題だ。八方から飛んでくる銃弾によっていつ死ぬとも判らない恐怖、雨のように降ってくる爆撃弾にいつ被弾するかと慄く恐怖を知らな過ぎる故に比較的簡単に戦地に赴いて(あるいは送って)しまう世代だ。


 
松田記者は豪雨の真の恐怖を知っていたのだろうか?あの時の私のように「無鉄砲」ではなかったか?あの豪雨の夜中に取材を許可したデスクはどうだったのだろうか?

 その新聞の9月18日付第一面に掲載されたルポを書かれた若手記者さんが、他界した娘の事を取り上げてくださった記者さんであることに私は運命を感じてしまう。「恐怖を知っておくことの大切さ」を今回の台風から感じ取っていただければ幸いなのだけれど。
 
 
 
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