●瀬音
 わしゃ根の谷川の河童よ その2 2001年8月 酷暑号


 前回に引き続き、「根の谷川のもと河童さん(おん年75歳)」のお話です
  

 根の谷川は、三入の辺は浅いんじゃが、わしがおった深入(シンニュウ)は、二、三百メートルの間深うて、よどみがあって、グーッとカーブして、淵があって、かたや断崖、かたや竹やぶで、魚の宝庫じゃった。わしらがこまい頃は、なんか「集まれ」言うたら川へ集まることで、みんな深入へ集まりよった。別にしつらえたわじゃないが、河川敷が広うて、そこが遊び場じゃった。
 川には大きな岩があって、その底がえぐれとって、そこに魚がおる。「げんのう」の大きいのを担いで川に行って、石をなぐって魚がしびれたところを捕りよった。バケツに二、三杯はすぐ捕れよった。アユは太田川の方が多いうて、中島の先の翠香園の沖がすごかったよ。マスの類も、根の谷川におったのはおったが、ようけはおらなんだ。いろんな魚がおって、いっぺん、海で言うたらカマスそっくりの、歯が鋭い魚をみたことがあるんじゃが、ありゃなんじゃったんかいのう。それからカジカ、わしらは「ダンギ」いうて言いよったんじゃが、道の上からもおるのが見えよった。今はおらんですが、これはおいしい魚じゃった。
 わしらが子どもの頃は、川の水を飲めるぐらいきれいなかったけえ、ほとんど川の水をそのまま使いよった。風呂の水は根の谷川の水じゃった。風呂を炊きよったら、風呂桶の中にフナの子や泥鰌が入っとって、かわいそうじゃけえいうて川に戻してやりよったですよ。
 わしらは広島市内の方へも潮干狩りとか、泳ぎに行きよった。猿猴川はいまでこそものす汚いが、昔は川泳ぎのメッカじゃった。あそこと相生橋、あの辺が盛んじゃった。向洋のあたりもよかったでー。太田川も深かって、梅林の沖ぐらいで十メートルぐらいあった、八丈岩のところが一番深うて、二十メートル近くあったんじゃないですか。

 話はころっとかわって、わしは戦時中から広島市内に出ました。不幸中の幸いで原爆にはおうとらんのですが、横川辺りに長いことおって、それからいまこの長束におります。その間ずっと、目が回るような街や川の移り変わりをみてきました。
 戦後すぐ、横川から楠木にかけて川っぷちは全部製材所と材木置き場じゃった。今はマンションになっとりますが、あそこらは昔から木場じゃった。わしが広島に来た昭和25年ごろも木場で、車がまだなかなか手に入らんかったけえ、馬車で木が入りよったですよ。今基町の市営アパートが建っているところは元練兵場で、あそこに木造の一戸建ての市営住宅が何百いうて建っとった。戦後廃墟になって、すぐにはコンクリーの家は建たんから、加計の方の木がそりゃあたくさん伐り出されて使われたですよ。伐ったあとに、国がスギやヒノキばっかり、ようけ植えさせたんじゃろう。
 戦後当分は山師さんが儲けて、横川には飲み屋がようけあって、広島一の繁華街じゃった。横川は山師さんのために出来たような街じゃったね。祇園や長束の方の人らも横に買い物に出てきて、露天や夜店で、すごい賑わいじゃった。あれは昭和30年代ぐらいまでじゃね。昭和40年代後期から、外国材に押されて、材木屋さんが倒れたりしだして、木場じゃった辺はビルが建つようになった。横川の方も、あれからがらっと変わってしもうた。
 
 わしゃあいまは長束に住んどります。この辺から上は、昔太田川が氾濫したときに上から栄養のある土を運んできてくれたおかげで、土地が肥沃で、ものを植えたらようできますよ。でもここらも、祇園新道が出来てから、外国みとうになりましたな。
 わしの家の目の前で、太田川から放水路が分かれとる。毎日川を見よったら川は生きものじゃ思いますよ。今日なんかはいっぱいに水がありますが、上流の方で調節しとるんかいね。じゃけどなんかこの何年か川の様子がおかしいで。砂の出方も変わったよの。上の方でなんか起こっとるんかいね。
 
 
 それにしてもあんたあ、わしの話を聴くんもええが、きりがないでえ。また話したげるけえ、このたびはここらで止めときんさいや。よそにもタヌキさんやらキツネさんやらクマさんやら川獺さんやらいろいろおってじゃろう。
 
当ホームページ上の情報・画像等を許可なく複製、転用、販売などの二次利用をすることを固く禁じます。