●インタビュー
 朴風(かぜ)の家 音楽集団 梶川 純司さん ブログ:梶川純司/音楽集団・朴風(かぜ)の家
2001年7月 若苗号

 森と水が元気じゃないと、音楽もやっていけなくなるんですよ

 今回は、太田川の河畔などで「水辺の音楽会」というライブ活動を展開しておられる「朴風(かぜ)の家」音楽集団の梶川純司さんにうかがいました。

 ―「水辺の音楽会」への思いを教えていただけますか?

 ―「音楽が『非日常』になりすぎてきているような気がするんですね。

 暮らしの中に音楽を取り戻したい、それが民謡であっても童謡であっても何でもいいんですが、日常の生活の中に音楽を取り戻したい。日々の暮らしの中に音楽が溢れてる、笑顔が溢れる、つい歌いたくなる、口ずさむ、聴いててつい体が動いてしまう、そういうことを大事にしたいなー、と思っています。

 20世紀に入ってからクラシック音楽が特別なものとして、一部の趣味の人や特権階級のものという時代が続いたんで、その弊害が今に来ているような気がします。音楽を日常の生活の中に取り戻すということは、音楽をホールの中だけで楽しむのとは相容れない面があります。
 川のせせらぎの中でピアノを弾いたりすると、音楽ホールの感覚でいうとせせらぎが邪魔になりますが、僕は、せせらぎや、セミが鳴く、風がなる、木の音がする、そういう音は本来音楽と一番仲良しなんだと思います。ところが、コンサートホールに行くと、ちょっとした、時計が動く音なんかでも気になる。そういう感覚と、せせらぎやざわめきが音楽と一だよ、という感覚は相反しているんですが、僕は開かれたところでコンサートをしたい。
 
―音楽というのは『いま』を生きることそのものなんです、音は出した瞬間に消えてしまいますから。

 コンサートというのは、生きている体が、百人なら百人の人が、『いま』この空間で生きている、それぞれがそこで生きているということを音で共感することじゃないでしょうか。音楽を聴く、あるいはする、楽しむという『いま』を生きる行為を、演奏している人間だけじゃなくて、聴いてくださる方も共有する。コンサートを聴くということは、演奏する者と一緒に音が出る瞬間を作っていくことだと思うんです。
 もし演奏をする人間だけが音を作るんであれば、壁に向かって吹いても吹けるはずなんだけど、壁に向かっては吹けないんです。やっぱり聞いてくれる人の目なり表情なり、あるいは身振り手振りなり、なんでもいいんだけど、生きている人がいないと演奏にならない。もちろん僕は山の中に入って独りで誰もいないところで吹いたりしますが、それはもう一人の自分自身に音楽で問い掛けるという作業なんですね。
 
―「そういう思いと同時に、人の暮らしというのは水辺から始まるわけで、水辺から離れて生きていけない、どんな山奥にいっても谷川沿いに家を作るだろうし、泉のほとりに家を作るだろう、人間の暮らしと水辺、暮らしと音楽がひとつのものだということ、そこを大事にしたい。
 
 やっぱり水辺に暮らすということを、われわれは水辺を大事にして生きていかなきゃいかん、そういうことをみなさんと感じながら、川の音を聞きながら一緒に楽しみたい。
 音楽としてどう生きていくか、ということと、水辺で暮らしていくということは全然違う要素のように感じられるかもしれませんが、実はそこで日々生きていくということでいえば、同じものなんです。 いまこの瞬間、瞬間を、音を感じながら生きているということを、聴いてくださるみなさんと一緒に感じることによって、暮らしそのものをいっしょに、音空間をいっしょに過ごしていきたい。それには水辺でコンサートするのは当然のことだし、


―むずかしいことは抜きにしても、水辺というのは、僕にとっては一番音楽をしたい場所なんです。

 どんな山奥にいっても、山のてっぺんに行っても湧き水がありますし、水は恋しいわけで、そのわずかな水でも拠り所にして生きていけるという、それを大事にして生きていけるということは、僕にとっては音楽をすることと同じことなんですよ。」

―「森と水が元気じゃないと、音楽もやっていけなくなるんです。
 
 いい楽器というのは、いい空気と水のもとで、こころある職人さんがつくったものなんです。僕はフルートを吹いたり、篠笛を吹いたりするんですが、竹は環境が悪いと上手く育たないから、いい楽器になりません。僕らにとっては本当に死活問題なんですよ。

 竹は楽器になってもまだ生きているんです。これ(篠笛)をここで吹くとすると、ここの環境に慣れるまで、時間がかかります。だからコンサートをするときは、早めに行って置いておくんですよ。この竹は自分が置かれている自然界になじもうとしているわけですね、フルートなんかは木から金属に変えたりキーをつけたりして、すぐに人間様の都合のいいように鳴ってくれる楽器に作り上げている。でもこういう生の楽器は、そういうことはいっさいありませんから、自然界の中に溶け込もうとしている。ということは、吹き手が、この笛を通じて自然界の中に溶け込まないと鳴ってくれない。
 彼(篠笛)は自然界の中で呼吸をしているわけで、僕の方を向いてない、人間の都合は関係ない。僕がいまここで演奏しようとして、ここの雰囲気に関係ない、自分の都合だけで無理やり吹こうとしても鳴らないんです。彼は、僕じゃなくて自然の中にいますから、僕がここで吹かせてもらうんだから、ここの自然の中に溶け込むように、気持ちも、気持ちだけじゃなくて体もそういうふうになっていかないと、息の流れが乱れるんです。ものすごく微妙なことですが、しかしシビアです。鳴らないときは本当に鳴りませんから。
 
 それから、水や空気の汚いところへ長い間置いておくと、彼は楽器として鳴らなくなります。やっぱり呼吸しているんで、空気が悪いとだめなんですよ。一日・二日では大丈夫ですが、やっぱり何ヶ月も何年も置いとくとだめなんです。よく症状としてでてくるのは、割れますね。それは乾燥と湿気の問題よーといって一言で片付けられるむきもありますが、かなりメンタルなものを感じますね。」
 
―最後にメッセージをお願いします。

「いわゆる『水辺の音楽会』として企画が始まったというより、僕自身の中で勝手に『水辺の音楽会』シリーズとして位置付けて、いろんなところにでかけています。太田川だと、―京橋川と猿猴川が分かれるところの、城南通りの橋の袂の緑地帯で広島市がオープンカフェをやっているんですが、7月はそこのステージで、毎週夕方にやります。曜日はゲリラ的に、気が向いた時にやってますので、よかったらのぞいてみて下さい。」
インタビュー 2001年6月22日 インタビュアー 原 哲之
 
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