自分の被爆体験を次世代に伝える意味
ー語り部の思いとその活動ー


 8月号で被爆体験の中村妙子さんの語りを書きましたが、中村さんの人物紹介が編集側の都合で同時に出せませんでした。しかしこれは中村さんだけの活動でなく、現在行われている平和祈念館の活動でもあります。ここでは8月号と重ねて読んで頂きますようお願いします。



○中村妙子さんの略歴


 生家は西観音町、爆心からの距離1キ囗半。女学校3年生の時に自宅で被爆した。
 学校を卒業して後、中学校の教諭となり音楽科の指導に当たる。
 10年後に退職して、家庭でピアノ教室を開き、35年間続ける。
 1998年より朗読教室、NHK日本語センターで朗読の学習を始めた。
 2004年以後毎年、現在の自宅のある府中町内の公民館や学校、図書館などでボランティア活動として、昔話や紙芝居も含めて被爆体験を話すようになった。
 この頃から自分の体験、今までずっと心に取りついてきた、従兄弟兄弟達の最期を自分の言葉で残すことに取り組む。またその頃の我が家周辺の家並みなどを描いて図面にして残す。
 2007年、被爆60周年国立原爆死没者追悼平和祈念館による「体験記朗読ボランティア」募集に応募して合格。
 2008年、従兄弟たちの罹災状況と遺影を納め、永久保存の登録をする。体験記と朗読テープも寄贈。
 本年より、修学旅行生、学校、各団体等を対象に、被爆体験記の朗読を行っている。


○国立平和祈念館の活動

 中村さんの現在の活動母体である「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」についてふれておく。

 祈念館の詳細はここでは紙面がないので別紙とするが、ここでは被爆者やその遺族の高齢化が進行の中、あの日の体験を世代を越えて心と記憶に刻み込むことの必要性が強く考えられた。

 そのために被爆体験記朗読ボランティアをつくることに取り組んだのが07年。ボランティアの募集に応じて集まっだのは180名。その中で審査会を経て決まったのが、中村さんを含めた41名であった。会では早速その研修会を開き、朗読で人に訴える力を高めることを研鑚した。

 この会の応募者の審査から加わって、以後、朗読研修の講師を務めてきた室積馨さんのお話しでは、180名の応募者から審査をして08年3月に41名を合格としたが、その人たちの年齢は20歳〜87歳と幅広く、その経歴はアナウンサー、レポーター、放送演劇関係に携わってきた経験者から、全く初めてという人までいろいろだった。

 しかし、今は語り継ぐその使命を分かちあう仲間であることを、お互いが強く意識している。広島の地からその輪がさらに大きく広がっていくことを見守っていきたい・…と語られていた。

 修学旅行で広島を訪れた東京の高校生がこの朗読を聴いて、強い反応を示し、残して行った感動の文もある。

○中村さんの言葉

 あの囗、たまたま私は運よく助かりました。しかし、従兄弟は骨のかけらでした。近所の人達の多くは、生き埋めになったまま焼け死んだのです。その後の私は、この時悲惨な目にあった人達に対して、申し訳ないという思いに悩まされる日々が続きました。

 そんな思いの中で取り組んだのが今の体験記の朗読だったわけです。遅まきながら、これをこれからのライフワークにしようと、夢中で勉強しました。

 近頃の私か強く感じることがあります。
 『やすらかにお眠りください、あやまちは繰り返しませんから』こんな言葉があったけれど、あれは一体誰が言ってるんですか。そんなことを責任持って言えるあなたは誰?…空虚なものを感じさせる。いやそれよりも無責任な放言とさえ思えてきます。

 今、世の中の動きを見ているとまたあの不幸な時代に戻るのではないかという不安を感じます。戦争のない世の中になるよう、その為に各自が出来ることをさがしてみる。その中の一つの働きとして私にできることが、戦争体験のない大たちに、あの時の出来事や人の暮らしを知ってもらって、今からの進み方を求める鍵にしてもらいたい・・と、そんなことを願って、取り組んでいます。人生最終段階に来ている私ではあるけれども、できるだけ頑張りたい。それがまた、今後の私自身の生きる支えになると思うのです。

 
 
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