母と従兄弟と私と
ーそこに見た戦争というものー
「中村妙子」による語り十五分


◆一磨と正治

 太平洋戦争が終わりに近づいた1945年。昭和の年号で言えば昭和二十年の夏、私は女学校三年だが身体の調子を崩して、自宅療養中でした。当時の私の家は西観音町一丁目にあり。母の家族もその近くに居りました。

 父と兄とは軍隊に召集されて出ており、我が家には母と私の他にもう一人親戚の兄が同居していました。彼も軍隊に召集されて出ていたのですが、これも病気で一時帰国し、我が家に寄留していたわけで、西観音の我が家の近くに、一磨と正治の兄弟が住んでいました。この二人の父は私の母の弟の子ですから、私の従兄弟になります。この母の弟は当時海軍の兵士として、軍港のある呉におりました。

 一磨と正治の母は近くの食料営団で働き、子供たち二人はお祖母さんと五日市の奥の方に疎開していました。当時はこのような家族がばらばらな暮らしが何処にも見られたものでした。

 この子たちの住んでいた家は元はお金持ちの別荘で、大きな大理石でできた風呂もあるお屋敷でした。戦争が激しくなる前は、私も従兄弟たちもよくこの庭を遊び場にしていました。石垣を巡らした広い池には鮒や鯉が泳ぎ、蛙もトンボもミズスマシも、ゲンゴロウもセミも、その他色々な生き物がいっぱいいました。池の周りには立派な石燈篭も、大きな石を据えた築山もあって、松や楓の木々が枝を広げていましたし、秋になるとドングリの実がいっぱい落ちている、すてきなお庭でした。私はテルという名のうちの犬と連れだって、よくそのお庭へ遊びに行きました。私の家からだらだら坂を降った所に、白い大きな花を咲かせる泰山木の在る空き地があり、近くの子供たちが集まって、その木に登ったり、鬼ごっこをしたりしていました。その横の路地を通り抜けると一磨たちの住んでいる家へ行けるのです。私の家の近くには、そのお金持ちの大きな温室もあって、珍しいサボテンが沢山育てられていました。

 この従兄弟の上の子の一磨は、昭和12年7月7日生まれで、当時8歳でした。この子の生まれた日は、日本軍が中国全土に戦争を拡げた日でしたから、勇ましい男の子になるとみんなから期待されていました。でも本当は、一磨はおとなしい、気持ちの優しい子でその頃では珍しくピアノを習っていました。

 弟の正治は4歳の元気の良い子で、「ウミハ ヒ囗イナ オオキイナ・・」の歌をいつも上手に歌っていました。「正治ちゃん、歌うてみんさい」と言うと、得意になって歌ってくれていました。


 
◆八月のその日

 原爆が落とされる前の日、8月5日は日曜日でしたので、一磨と正治の兄弟はその母親に連れられて、疎開先の五日市から西観音町の自宅に帰り、久しぶりに母子三人だんらんの時を過ごしました。その日の夕方に五日市に戻る予定だったのですが、私の母のすすめもあって、もう一泊することになり、子どもたちも大喜びでした。

 夜、私の家に泊まった祖母は、8月6日の朝早く井口の方に桃を買いに出かけました。

 その後、7時頃だったでしょうか?もうミイミイゼミの鳴き声が盛んに降り注ぐ暑い朝でした。泰山木のある横の路地を抜けて、私は貴重な砂糖の入ったケーキを持って二人の兄弟を訪ねて行きました。ケーキといっても小麦粉にふくらし粉を入れて焼いただけですが、当時は砂糖は簡単には手に入らない物でした。そのケーキを縁が金色のお皿に載せて持って行きました。二人の兄弟に食べさせようと、私の母が6日の朝になって焼いたのを届けに行ったのです。がっちりした格子窓越しに顔を見せた二人は大喜びでケーキを手にし、頬張りました。

「美味しい?」と声をかける私に「ウン! スゴクオイシイ!」と二人・・。この会話を最後に私は自宅に引き返しました。前述のように日中戦争が始まった日に生まれた一磨や、太平洋戦争の始まった年に生まれた正治たちは、甘いケーキやチョコレートの味を知りません。あの時の二人の満足そうなキラキラした顔の輝きは、今もはっきりと私の心に焼きついています。

 
◆瓦礫の下から這い出す

 そして、あの8時15分!
 母と私は崩れ落ちた家の下敷きになりました。不思議にも私には怪我が無かったものの、母は背中に深い傷を負っておりましたが、とにかく二人は、積み重なった瓦礫の下から辛うじて抜け出すことが出来たのです。しかし、親戚の兄の方は、家の外に放り出され、首や肩の辺りを大きくえぐりとられており、血だらけで、動くこともできない状態でした。

 私たちは、通りがかりの人に助けてもらって、近くの空き地に避難できました。あのサボテンの温室の近くです。

 しばらくして、母は自分が傷を負っていても、この日近所に泊まっていた一磨や正治のことを心配して、二人の家へ行ってみましたが、家はもう火の海となっていました。後日、私か母ともう一度焼け跡へ行った時には、親子三人の骨と内臓らしきものが残っていただけでした。焼け爛れたテーブルと、金色の縁の皿に、大きな骨と小さな骨、少し離れたドアの辺りにちょっと大きい子どもの骨・・おそらく三人揃っての朝ごはんの最中だったのでしょう。原子爆弾の炸裂と同時に、正治は母親に飛びつき、一磨は大きく刎ね飛ばされたのでしょうか・・?

 池の鮒や鯉も、色々な虫も死んでいました。石燈篭も崩れ、庭の木も、みんなの遊び場だったあの泰山木も焼けただれてしまい、大理石のお風呂と赤茶色に焼けた家の敷石だけが残されていました。


 
◆『戦争はいつすむんね?』

 後になって、祖母から聞いた話があります。
 五日市の疎開先で、祖母が一磨と正治と一緒にビワを食べた後、その種を庭に埋めながら、一磨が「おばあちゃん、ビワは何年したら実がなるんね?」と聞いたというのです。

「『モモ、クリ三年、カキハ年』とは言うけど・・ビワは何年か聞いたことがないのう・・戦争が済む頃にゃあ、実が成るんじゃないかのう」
と答えた祖母に、一磨は。
 「戦争はいつ済むんね?」と尋ねたというのです。

 八歳の子どもにとって、夢は戦争が終わって父が帰り、家族揃ってビワを食べることだったのでしょ’つ。

 
◆父帰る

 呉の海軍にいた一磨らの父親は原爆が落とされてすぐに、様子を調べに広島へ帰って来ましたが、疎開をしていた筈の子どもたちまでが犠牲になっていたことを知って動けなくなり、その焼け跡でまんじりともせず、一晩を明かしたそうです。暗い夜空を一人眺めて父親は何を考えていたのでしょうか・・。

 一方、私の母が生涯、苦に病んでいたことは、

「すぐに駆けつければ、助け出せたかも知れなかった・・・。

 もう一日泊まるように勧めなければよかった・・・」と。

 我が家の仏壇には、三人の写真が掲げてあり、母は79歳でこの世を去るまで、このことを苦にして絶えず仏様に手を合わせ続けていました。

 戦争が終わって、海軍から帰った二人の子の父は、酒を飲んで酔っ払うと、よくあの歌を歌っていました。

  ウミハヒ囗イナ オオキイナ
  ツキハノボルシ ヒガシズム

  ウミハオオナミ アオイナミ
  ユレテドコマデ ツヅクヤラ

  ウミニオフネヲ ウカバセテ
  イッテミタイナ ヨソノクニ


 あのビワは、今では大きな木に育って、実をたくさんつけているということです。


 
 
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