向井さん親子の戦中戦後体験記
三篠〜可部〜八木〜江波、転々
2006年8月 64号

 
 今までの本誌では毎年八月号に原爆に関わる体験記を掲載してきた。今回6回目は本会の会員でもある向井康員さんにお願いした。向井さんは当時は小学二年生で、居住の横川三丁目から近郊に疎開しており、直接被曝は免れたが、広島の焼け跡で厳しい「戦後」を体験した。お父さんの豊さんは三篠の工場で被爆、建物の下敷きになったが脱出。翌日に家族のもとに帰られた。その後は様々な症状が体に表れながらも恢復して90歳を越えて生きて来られた。この体験記が『ピカに灼かれて』(生協原爆被害者の会発行)に所載されている。向井さんにお願いしてその一部も出させて頂いた。本稿は親子の戦争体験記である。
 

向井康員さん(終戦当時小二)の戦中戦後体験
 
 1.八月六日以前のこと

 
私は昭和12年生まれである。日中戦争が始まった年であり、やがて昭和16年の太平洋戦争へと次第に戦局は厳しさを増していく。昭和19年4月、三篠国民学校に入学。校門の真ん前に母の実家の営む土井文具店の戦前の写真が残っていたのでご覧頂きたい。撮影は昭和8年か9年ではないかと思われる。このお隣も文具店だったようで、2000人の児童生徒を相手にしのぎを削っていたのであろう。

 当時の学校は校門を入ったすぐ左側に奉安殿があった。校長先生がまるで乃木大将が写真から抜け出たような白いあごひげ姿で「朕おもうに・・・」とのたまう様子を見てかっこいいと思ったこと。と、運動会の出し物の一つであるリレーは記憶にある。運動場の真ん中に「ルーズベルト」「スターリン」「蒋介石」らの大きな張りぼてが置かれ、それを棒で叩きつぶすリレーである。その他の学校生活の思い出はほとんどない。

 家へ帰ってからは二つ違いの叔父の腰巾着になって、三滝の近くに川原に遊びに行くことが多く、川原にトーチカを掘り、斥候を出したりして本格的な戦争ごっこなどをしたものである。
 

三篠小学校前にあった母方実家の土井文具店。
当時の店の様子が分かる。間口が五間か?奥行きは不明で二階建て。
看板や幟にある品名を拾ってみると、文具・雑誌・化粧品・たばこ・学用品一切・幼年倶楽部・講談倶楽部・新古雑誌・セーラー万年筆・呉服・雑貨・売薬・中将湯などと相当の品名が読み取れ、当時の町の百貨店の趣がある。
写真撮影は昭和9年ごろで向井さんの出生前のようであるが、原爆まではここで営業していた。

 2.縁故疎開で転校


 私たち少国民が鬼畜米英の思いを確固としていくのとは裏腹に、日に日に空襲は激しくなり、地下の防空壕への出入りは頻繁になった。B29がキラキラ光るはるか下方で高射砲がむなしく爆煙を上げては散っていく様子をしばしば目にするようになった。

 こうした状況のもと、昭和20年4月、2年生の進級に合わせて縁故疎開ということになった。仕事を持っている父だけが広島に残り、母、私、弟二人の家族4人は母の実家である可部町の福王寺山の西側、大畑に行くことになったのである。家財道具は馬車で、私たち4人は可部線で可部まで行き、そこから歩いて河戸−大毛寺−勝木、それからさらに綾が谷へと一里余りの行程で到着、実家である農家の納屋に落ち着いた。転入した学校は綾西国民学校。全児童数は20人に満たない。先生は校長ともう一人の女の先生の二人だけ。今までの2000人の三篠と比べてその差の大きさに驚いた。その中では私の学年は8人で多かったが、三年生はなんと一人だけという、これも驚きだった。担任は女の先生で、三学年まとめて受け持ちだった。

 ともあれ、それまでの町の生活に比べてこの農村での暮らしはのんびりしたものだった。食うことを除けばである。8歳、6歳、2歳の男の子を抱えて母の「タケノコ生活」が始まった。母の着物が一枚また一枚と消えていき、米、藷、野菜に化けたのである。藷の茎やイナゴを食ったのはそのころである。なけなしの米を食い延ばす手立てはしごく簡単。季節によって時にダイコン、また時にサツマイモをふんだんに入れておかゆにするのである。藷はともかく大根はほとんど水分だから、すぐに胃の中はからっぽ。いつもハングリー状態だった。
 
 3.昭和二十年八月のこと

 まず「ピカ・ドン」の日のことだ。8月6日午前8時15分。一瞬ピカッ・・ドーン。木造オンボロ校舎の窓ガラスがビリビリと震えた。しかし1枚も割れなかった。先生の指示ですぐさま校庭に出た。直ぐ近くの農家の納屋が私たちの住まいだったので、母が6歳の弟の手を引き、2歳の弟をおんぶして裸足で出てきていた。このとき、何故か菜箸を持っていたことを記憶している。

 はるか可部の方面に黒い雲がモクモクと例の「きのこ雲」へと成長していく姿を見た。

 父は三篠の工場で被爆して作業台の下敷きになったが、幸いに怪我もなく這い出して、翌日の朝、歩いて大畑へたどり着いた。憔悴しきった様子だが見た目には無傷に見えた。この時の父の被爆からその後の様子は父本人が77歳の時に、自分で書いて投稿したことがあり、被爆体験記『ピカに灼かれて第十一集』(生協原爆被害者の会発行)に所蔵されている。その中から取り出して終わりに出しているので読んでいただけばと思う。
 
 4.地域の人、自然の中で

 戦争が終わった年は、秋になると海軍兵学校の英語教官だった伯父とその一家、予科練で特攻隊を免れた若い二人の叔父、さらに、あの三篠の文具店を一人で守っていて奇跡的に助かった叔父など、母の兄弟たちがみんなこの大畑に集まったことが子供心を大いに勇気づけてくれた。特に若い連中が中心になって青年団を立ち上げ、当時「倶楽部」と呼んでいた寄り合いの場所とか、学校を借りて素人芝居・歌・踊りなどを村人たちに披露する催しが盛んだったことが懐かしく思い出される。
 
 5.父方の本家の納屋へ

 三年生になると今度は父方の本家の納屋が住処となる。当時の安佐郡八木村字細野。可部とつながる太田川橋のやや上流である。もっとも、父の生家はそれより上流の鳴という所(左岸は現在太田川漁協)で、この家はいまは跡形もない。父の幼少期には祖父母は農業のかたわら、夏場は夜、かがり火をたいて鮎をとり、かごを仕掛けてカニをとるなどして現金収入を得ていたようである。

 この上細野では「ながし」という漁法を体験した。昼間、ドバミミズ(大ミミズ)とかゴリ(ドンコ)を確保しておき、夕方になって太田川橋の少し上流の浅瀬を横断する形で糸(たたみ糸)を張り、等間隔に餌を付けた筋糸を垂らす。このとき川の両サイドの糸の端は大きな石に結びつけ、流されないようにしておくのである。きわめて素朴な漁法であるが、翌朝上げてみるとナマズ、ギギュウ、ウナギなどがかかっているという次第。貴重な蛋白源であった。また、泳ぎはここで本格的に覚えた。学校は八木小学校に転校し、この頃から濫読の読書も盛んにはじめた。

 この年、父は職にありつけず、無収入状態が原因で夫婦喧嘩が絶えず、子供心はいたく傷ついた。でも、ちょっと視点を変えてみると、前年の8月から約1年半をぶらぶら過ごしたことが、戦後60年を生き抜くエネルギーの礎を築いたのかもしれぬ。
 
 6.江波の社宅で内職暮らし

 昭和22年12月、、4年生の二学期が終わった時点で広島市の江波町に転居した。父がやっと再就職でき、その会社の社宅に引っ越したのである。屋根はソギ葺の八軒長屋であった。後に中学一年の時だったがものすごく強烈な台風に襲われたことがあった。確か「キジア台風」だったと思う。その時、屋根がペラペラに剥がれ、やがて台風の「目」が通過する時には家の中から月見をした。屋根だけではない。道路に面した端っこの家だったから土壁もすっかり落ちて、中身の竹組だけになった。翌朝、三菱造船所に通う人々がこちらを指差し、笑いながら通り過ぎていく姿に強い屈辱感を覚えたことを忘れることはできない。

 昔、文学少女だった母はわずかな蔵書をもとに、狭い玄関の一部にその本を並べて貸本屋を始めた。夜は家族全員で父の持ち帰った内職の仕事をするのが常だった。ゴムぞうりについた余分の端きれを鋏で切り取る単純作業である。収入はいくばくもない。休日ともなると裏の会社所有の土地を借りての農作業で、麦・サツマイモ・さやえんどう・じゃがいも・ささげ、なんでも作った。その時々にカッコ悪い肥タン担ぎをさせられたものである。
 
 7.中学高校ずっとバイト

 昭和25年、東雲中学校に進学。前述の伯父が戦後の混乱期の人材不足もあってか、33歳で広島大学東雲分校の教職にあったこと。母がすこぶつ付きの教育ママだったことなどから、こういう運命になった。

 相変わらずの貧乏神同居の向井家だった。

 高校もわざわざ寄留して国泰寺高校に進んだ。入学時の三千円の寄付金も払えぬ様子を見兼ねた担任の女先生がこっそり私を呼んで「向井さん、ボロで悪いんだけど」といって自転車をくださった。初めてのマイ二輪車を皆実町のご自宅までいただきに行ったことを懐かしく思い出す。三年間愛用した。

 高校二年の時から家庭教師を始めた。半端ではなかった。週に三つ。ほとんどの夜がそのために費やされた。終えた後、冬の夜遅くなど、流川あたりから江波までチェーンをきしませながらペダルをこいでいると、無性に情けなく悲しくて、涙することも時としてあった。お金はすべて母に渡した。修学旅行も費用のことを思い勝手に辞退した。その代わり、旅行中に広島であった同志社大学グリークラブの演奏会に行ったことを思い出す。

 ついでだが、私は高校の三年間、コーラス部に所属していた。二年のとき、広島代表として大阪に行くことになった時も、やっぱり我が家の経済状態が気になって、仲間たちに理由を明かさぬまま辞退したのだが、ある日バイトから帰るなり母が私に、部の女子何人かが我が家に来て「向井君を大阪の大会に行かせてあげてください」と頼んだことを告げて、涙ながらに「どうして言うてくれんかったんね。お金ならなんとでもするのに・・」

 結局、中之島ホールで歌うことが出来た。
 
 昭和31年、家庭の事情は絶対に浪人を許されぬ状態にあったが、辛うじて広島大学教育学部に入学できた。ここでもバイトバイトの多忙な日々であり、さらに空いている夜は、さる会社の宿直の仕事も入った。授業料は4年間免除された。奨学金も含めて一切を向井家に入れた。俗に「家、貧しゅうて孝子出づ」などというが、自分がそうだというのではなく、兄貴の姿を見て弟二人もそれぞれ頑張ってくれたと思っている。三人の兄弟が曲りなりにも広大を出られたのは、執念にも似た教育ママの力が大きく預かっているように思う。

 バイト暮らしのために友人たちとの交流は少なかったのだが、退職後毎年旧交を温めている。
 
 8.父のこと

 前述したように、三篠で被爆した父は八月六日は伴まで歩いてそこかで農家に泊めてもらい、翌日早朝に伴を出て再び歩いて私たちの所までたどり着いた。この時の父は憔悴しきった様子でだが見た目は無傷に見えた、と前に述べたが、やはり数日後から後遺症が現れた。しかしそれを何度か繰り返しながらその度に懸命に耐え、はね返した。父の被爆した時の年齢は34歳で、その三年後に仕事に就いて、以後は76歳まで勤務。他界したのは昨年4月、94歳であった、戦前、胸を病み兵役にもつけなかった身体であったのが、戦後60年も命永らえた事実には深い感慨を覚えずにはいられない。

 なお父が言っていたことに横川三丁目の人たちのことがある。疎開前まで私がいたあの町の人たちは八月六日当日は建物疎開のために各家一名ずつの動員がかかっていて、中心近くで被爆し全員が亡くなったということである。おわりに、皆さまの冥福を祈ります。
 

土井家一族との集合。

前列中央祖父母の間に座っているのが向井康員さん。
左端から母と末弟、上の弟。右端の少年が二歳上の叔父。後列左側三人は母の兄弟。
(昭和19年撮影)

 

向井豊さん(終戦当時34歳)の原爆体験 ・三篠西川ゴム工業で
 
 *工場の作業台の下敷きに
 
 当時私は三篠本町の西川ゴム工場に勤めておりました、その日は8時から仕事につきました。少し経ってからピカッと光り、瞬間にドーンと音を聞きました。すぐ目の前が暗くなり、胸苦しく、このまま死ぬるんだ、ナムアミダブツ・・と、その後の時間はわからないけれど、ふと目の前が明るくなり、気がついたら作業台の下に腰より下が下敷きになっており、右足の感覚がありません。力の限りもがいて、漸く這い出しました。工場の裏口より出てみると見渡す限り家は無く、布団が干してあるのがくすぶっており、人影はありません。私は更衣室へ入りいつも非常用に準備している食糧・衣類を入れたリュックを持ち、屋根伝いに可部線の線路に出ました。通路は家が倒れていて、南の方角は全市に火の手が上がり、その炎は天を覆い、風も出て物凄い景色でした。
 
 *北へ、西へと逃げる
 
 当時、妻と子供三人は可部町に疎開させ、私と妻の弟の清の二人で三篠小学校前に住んでいました。清さんはどうしたか気になるけど、もう火の手が上がっていて家には近寄れません。少し新庄の竹藪で休みました。線路の枕木もくすぶっていますが、他に通り道がないので大勢の人が線路伝いに歩いてきます。焼けただれて手の皮がボロのように垂れ下がり、髪振り乱した人たちが・・。その中に隣のおばあさんが運良く無傷でおられ、清さんは無傷で三滝方面に避難したことを聞き一安心しました。また己斐方面から飛行機が見えたので全員竹藪に避難。急に雲が曇り、大粒の雨が降って来ました。それはだんだんひどくなり、滝のようなどしゃ降りになり、皆ずぶ濡れになりました。雨は三滝山より北方、武田山方面が黒雲に覆われ、南の広島の街は炎が天を覆い真っ赤に焼けていました。道路はトラックが被爆者を鈴なりにして次々と可部方面に向かいますが私たち無傷の者は乗せてもらえません。雨がやんだので足を引きずりながら安小学校までたどり着き、そこでカンパン一枚とおにぎりを頂き、少し休んで伴まで歩いて農家に一夜の宿をお借りしました。当時は被災した時の避難場所が決められていて、私たち横川三丁目の者は「伴」になっていたのです。
 
 *やっと家族が一緒になったが
 
 7日の朝早く、可部大畑の家族の疎開先に帰りました。帰ってみると家内は子供をおんぶして、広島へ私を捜しに出たあとでした。それから一週間は毎日、帰って来ない兄の長女、姉の次女を捜しに広島へ出掛けていました。横川ー白島ー八丁堀ー相生橋と捜したけれど見つからないままでした。私は10月頃から腹が大きくなり、黒い斑点が全身に出て、頭髪は1/3くらい抜けました。下痢もありました。食べ物は無いし、配給の牛缶は古かったのでみんなが腸をやられました。薬がないので、良いと言われる物はなんでも食べました。心臓には雨蛙が良いと聞き、生きているのをそのまま飲み込み、ヘビも自分で焼き少しずつ食べました。サンショウウオは黒焼きにして食べました。
 
 *戦後の再出発
 
 戦後三年目にやっと興亜ゴムに勤め始めて江波に社宅もでき、埋立地を借りて麦、サツマイモ、野菜を作りましたが肥料は人糞なので回虫がわき、一か月ほど県病院に入院しました。ここでも命拾いしました。というのは、県病院の建物も被爆しているので天井が落ちかけていたけど、ベッドがないのでその落ちかけの部屋に入院。4日目に漸く隣の部屋のベッドが空いて隣室に移ったのですが、その夜、前にいたベッドの上に天井が落ちたのです。その後は身体に気をつけ、半年に一度は検診を受けて注意し、55年定年後も76歳まで勤めていました。
 
 
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