「黒い雨」指定地域はどうなっているのか?
2005年8月 52号

宇田博士の調査報告

 1976(昭和51)年に「黒い雨」の降った地域(その中の「大雨地域」)が健康診断受診者証の交付地域に指定されています。被爆の日にこの地域にいた人は年に2回、原爆医療法に基づく健康診断を受けることが出来、その結果、厚労省の定めた11の疾病(造血機能障害、肝機能障害など)が発見されると、被爆者手帳が交付されます。被爆者手帳があれば、健康保険の自己負担がなくなり、医療費は無料になります。
 
 
 この「黒い雨」地域の指定は何に基づいているのか?それは被爆直後、9月から12月にかけて行われた当時の広島管区気象台の宇田道隆博士と北勲技師らによる「黒い雨」調査に基づいています。宇田博士らは、被爆直後の大変な困難の中で被災者の聞き取り調査を行い長径29キロ、短径15キロに及ぶ長卵形の地域に「黒い雨」が降ったことを明らかにしました。これは「気象関係の広島原子爆弾被害者調査報告」として、アメリカの占領が終わった1953年に、学術会議の「原子爆弾調査報告集」に収録され、初めて公表されました。

 図の卵型の外側の領域が1時間以内までの雨が降った「少雨地域」、内側の太い線の領域が1時間以上雨が降った「大雨地域」です。「黒い雨」地域指定は、基本的にこの調査の「大雨地域」を指定地域にしているのです。「この雨は黒色の泥雨を呈したばかりでなく、その泥塵が強烈な放射能を呈し人体に脱毛。下痢などの毒性生理作用を示し、魚類の斃死浮上その他の現象もあらわした。そしてその後も長く(2〜3ヶ月も)広島西部地区の土地に高放射能をとどめる重要原因をなした」と記しています。
(広島県「黒い雨」連絡協議会発行、続「黒い雨」より増田善信博士手記)
 

黒い雨はどこまで降ったか?
増田博士の調査


 1985(昭和60)年夏、原水爆禁止世界大会に出席した当時の気象研究室長、増田善信博士は、「黒い雨の会」事務局長だった村上経行さんの「雨というのは卵形に降るものでしょうか?」という質問に衝撃を受け、「黒い雨」地域の再調査を約束しました。
 そして2年後の1987(昭和62)年6月と8月に「黒い雨の会」の協力で、湯来町、豊平町、加計町、安古市町、五日市町、芸北町など合計9町村で、79人から聞き取り調査。アンケート1188枚などの資料をもとに、新たに「黒い雨」の図を完成します。
 この図で分かるようにすこしでも雨が降った地域は爆心地から45キロ、島根、広島両県の県境まで及び、東西方向は36キロ、その面積は250平方キロで、宇田博士の降雨面積の約4倍に及びます。


 
新しい「黒い雨」地域の否定

 増田博士によるこの調査は大きな反響を呼び、それまでの被爆者行政にもショックを与えました。そして翌1988年、広島県と市は合同で「黒い雨に関する専門家会議」を設置。これは「黒い雨の実態とその雨に含まれていた放射能の影響を、科学的、合理的に解明する方法の有無を検討する」という目的で、広島大学原爆医療研究所や、比治山の放射能影響研究所などの10人の専門家が10回にわたる会議を開きました。2年間かけた会議の報告書は「黒い雨地域における残留放射能の残存と人体影響の存在は認められなかった」という結論を出し、「降雨地域の推定では、これまでの降雨域(宇田調査)の範囲とほぼ同程度(大雨地域)と結論し、増田博士の調査による降雨域を否定しました。

 「黒い雨の会」の活動

 1976年に結成された広島県「黒い雨」連絡協議会は各地で被災の実態を語る報告集会を開いたり、署名運動を繰り広げます。湯来町、加計町、筒賀村では議会が請願を採択するなど、太田川流域では「黒い雨」についての関心が次第に高まっていきます。
 特に増田博士の調査による「黒い雨」地域の拡大は大きな反響となり、そうした中で、これまでの健康診断受診指定地域と指定から外れた地域の線引きについての疑問が大きくクローズアップされました。運動の中心となった湯来町の場合、水内川を境に南側は指定地域になり、北側は指定地域外です。「川を境に雨が降った所と降らないところが分けられるのか?」という声が起き上がっていきます。川を境にするケースばかりでなく道路を境にした指定でも、同様のことが各地で問題になっています。
 その後、広島市は、2001年12月、被爆体験者の心身への影響を中心としたアンケート調査を実施します。これは原爆投下前から現在の広島市に住んでいた60歳以上の人から無作為に選んだ1万655人に調査回答票をだし、5556人の有効回答を得たもので、昨年1月発表された調査結果によると、「黒い雨」に関しては、回答総数3614人中1155人が「黒い雨」を浴びたと回答。報告書は「黒い雨」体験者が、非体験者に比べ不安やストレスを多く抱えていることを報告しています。

 健康診断指定地域の「少雨地域に拡大」を要請

 こうした「黒い雨の会」の運動の継続や市の調査結果を背景に、広島県と市はこれまで宇田博士の調査による「大雨地域」に限定していた健康診断受診者証の交付地域を、原則として「少雨地域」にまで拡大することを、厚生省に要望することを決定、昨年8月6日、厚生労働省に要望書を提出しました。これは厚生労働省が長崎の被爆者の心理面への影響調査をもとに2002(平成14)年新しく健康診断特例地域を創設したことに関連して、市のアンケート調査をもとに広島での特例区域創設を要望したもので、厚生労働省の検討を待って、今年被爆60年を迎える8月には回答を得られるよう国に働き掛けています。
 要望書では、拡大対象地域は、安佐町、加計町、筒賀村、豊平町、湯来町の一部の旧村名を記し、その一部地域と表記されていますが、県の担当課では「具体的な線引きはまだ出来ていない」ということです。
 以上、「黒い雨」に関する実態調査と被災者援護対策、住民運動の経過の概要を「黒い雨の会」発行の3冊の冊子「黒い雨」と広島市発行の「原爆被爆者対策事業概要」(被爆60年版)を参考に記しました。
 

 
黒い雨の実相を後世に!

 広島県「黒い雨」被害者の会連絡協議会は約900人の住民で組織されていますが、被爆60年を迎える8月1日、去年につづいて今年も、高野正明代表らが県と県議会に対して6500人分の署名を提出。少雨地域の指定を国に求めることを要望すると共に、県が改めて「黒い雨」の実態調査と、被災者の県区調査を実施するよう要望しています。
 会の代表の高野正明さん(66)は湯来町で野菜作りをする農家。3年前にそれまで務めていた医療器具会社を退職し、去年から会の代表を引き受けています。高野さんは、小学校1年生の時、黒い雨を浴び、中学の頃までよく鼻血を出したそうです。「7月の初めに湯来町の「黒い雨の会」の総会を開きましたが、そこでも私を初めて聞くような話が次々語られ、時間をオーバーする程です。去年会長を引き受ける時、こういう運動をやると周囲から色々いわれる、といったら、県の社会福祉協議会の会長だった前会長の花本兵三さんは、人の世話をするにはそんなことは当たり前と思わにゃいけん。真実に対して勇気を持って対応することが大事じゃ。といわれてそれは当然だと思い引き受けました」と語ります。
 

 野竹の人々は今回の「少雨地域への拡大」で指定地域に入ることでしょう。しかし増田博士の調査で拡大した地域にはまだ多くの被災者が存在しています。改めて正確な調査が必要です。8月のあの日から60年、「黒い雨」被災者は老いの中で、身体に入った放射能の内部被曝の不安を大きくしています。

「黒い雨」の実相を後世に!
全ての降雨地域を被爆地域に!

「黒い雨の会」の呼びかけを再び掲げて筆を置きます。(文責・篠原)
 
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