太田川流域の放射能被曝「黒い雨」
〜消滅集落「野竹」の被災者に聞く〜
2005年8月 52号


 キノコ雲は当時吹いていた南西の風によって広がり「黒い雨」の降った地域は、太田川の流域全体に及びました。原爆による放射能汚染は太田川上流域にまで広がっています。

 世界で最初の原爆被災地広島。

 その中にあって太田川はどんな被害を受けたのか?

 被爆60年にあたって、太田川上流で「黒い雨」がどのように降ったのか?

 その北端にあたると推定される安芸太田町下殿河内の「野竹」集落(昭和40年代に廃村)の模様を当時の住民の方々にお話をうかがいました。

(篠原一郎)

 
300余年の歴史を持つ「野竹」集落


 昭和47年、最後に残ったお寺「今寿寺」が加計町丁川に移転して以後廃村、住む人がいなくなった「野竹」集落には、60年前の8月6日当時、5戸21人の人々が暮らしていました。加計から戸河内に向かう国道191号線沿いを左側にある町立加計病院から南東の猿彦山をこえて太田川下流の「田之尻」に下る斜面にあったのが「野竹」集落です。テレビ塔近くまで自動車で行けますが、それから先はヤブの中、現地に行きたいと思いましたが、真夏の山のことで入るのは無理と言われ断念。今寿寺の檀徒が元の場所に建てた石碑によれば、その由来は、303年前禅宗寺として開かれたことが記されています。昔は戸河内方面から広島に出るには、少し西北の「辺森」集落から「野竹」をとおり、田之尻に出るのが最短の道だといいます。

 60年前、山の中の5戸の人々の暮らしはどうだったのか?それぞれ30a程度の水田と畑に、麦や麻、小豆などを栽培していましたが、主な仕事は、炭焼きと燃料の薪づくり、それに山の木を切って加工する製材所もありそれを運び出して収入を得ていました。車の入らない山道を炭俵や加工した製材を背負い、歩いて35分、田之尻まで運びました。田之尻には船便の港があり、炭や薪は船で広島へ出荷されたと言います。

 60年前のあの朝何が起こったのか?当時の住人5戸21人の内3戸5人の方々に可部に集まっていただきました。


 
キノコ雲がはっきり 佐々木チカヨさん(85)

 戦前は湯来町で主人とお菓子屋をやっていたんですが、主人が出征したので、主人の実家の野竹へ来ていました。
 あの朝は麦の収穫をして、その仕上げで粒の選別をしよったんです。そしたらドガーンと大きな音がしてねえ。私らの所は標高600mの高いところでしょ。広島の方角は、山と山との間の切れ目で丁度、目線の高さにキノコ雲がはっきり見えました。
 それがこっちの方に広がって来て、ゴミが先頭を切って空をぐんぐん襲ってきた。灰がふるやら、町で焼けた板切れや、紙屑で薬屋さんの広告やら色んなゴミがいっぱい降ってきました。空が見えんほどゴミがやって来た。
 そして庭に広げているものを大急ぎで家にしまいました。洗濯物のシャツの肩の所に灰がかぶっていて、おばあさんが「ひどいことじゃ」といっていたのをよく覚えています。自分らも灰をかぶりました。しばらくしてすごい雨が降ってきて皆んな濡れて家に入ったんです。
 それから1週間か10日して鼻や喉の奥から生ぬるい血がドローとでました。
 
手も体も真っ黒に 滝川(佐々木)シズカさん(72)

 私は小学校6年生でした。あの日の朝、麻を蒸す平釜へ水運びをしていました。その時、光と大きな音がしてびっくりしました。
 そのうちに黒い雲が空からきて、焼けた襖や網戸の様なものが降ってきました。しばらくして雨が降って来て着ているものも手も身体も真っ黒くなりました。
 油のようにと言うか、野菜に降った水が葉に黒くたまっていました。
 それで池の水をバケツに汲んで身体にかけて洗いました。妹が4歳で泣くばかりで、妹も池の水で洗ってやりました。
 
今も喉の下に腫れ 中下ヨシコさん(64)

 シズカさんの妹。
 私は4歳ですから記憶はありません。
 もうかなり前から喉の甲状腺が腫れて、最初は咽喉がんかもしれないと医者にいわれたのですが、今も喉の下が腫れています。
 時々咳が出て食べ物が飲み込めないことがあります。
 
空が暗くなって雨が降った 佐々木誠三さん(66)

 シズカさんの弟。
 私は6歳で、外で遊んでいたら空が暗くなって雨が降って真っ黒になったのを覚えています。身体は弱く喉が時々痛くなります。
 
黒い雨地域拡大に期待 小田(栗栖)ハルエさん(77)

 私は17歳でした。あの時は、みんなで麻の皮を剥いでいました。その時ドーンという音がして黒い煙が上がり、木くずや紙の燃えカスや色んな物が飛んできました。少し経って黒い雨が降り出し、黒い煙と雨で身体中びしょぬれになり、黒い雨で顔も分からないような状態で、家に駆け込みました。野菜も灰と雨で黒くなっていました。
 これまで、湯来町の方の「黒い雨」にあった人達は被爆手帳をもらっているので、野竹でももらえんかねえ、と話し合っていましたが、今度、県が出している黒い雨地域の拡大には野竹も入ると期待しています。

30キロ地点の実感

 黒い雨被災についての実態調査と被災者援護を要求する運動は、被災した各地域の連絡協議会として、27年前の1976年(昭和51)、広島県「黒い雨」の会連絡協議会が結成され、現在も活動が続けられています。

 「黒い雨」の実相を後世に!
 すべての降雨地域を被爆地域に!

 この願いの実現に被災者の思いが込められています。この運動に当初からかかわり活動してきた安芸太田町町議会議員の松本正行さんは昨年、野竹の人々と現地に行き、その時の感想を「丁度南向きの斜面で、標高600mの高さから広島方面を見るとさえぎるものは何もなく、目線の高さでキノコ雲が見えたという話もその通りだったろうと納得した。直線距離で約30キロあるが、ここなら爆風で木切れや紙屑が飛んできたというのもよく分かる」と語ります。
 
 野竹地区の人々はその後1963(昭和38)年の中国産地を襲った豪雪をきっかけに、薪炭から石油にかわるエネルギー転換で、山の中の生活が続けられなくなり、広島や近くの加計町に移住していきました。

 1972(昭和47)年、最後に残った「今寿寺」が建物をそのまま加計町丁川に移転して、300年にわたる野竹の歴史は閉じました。
 
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