劫火を逃れた人で中洲は埋まった 2001年8月 酷暑号
太田川が市街地に入って京橋川と別れる所に中洲がある。
こんもり樹が繁って鳥が群れている。
かってこの中洲は今よりずっと大きな砂地だった。
1945年8月6日、この中洲は劫火を逃れて川を渡った人で溢れた。
行き場を失った人々はここで恐怖の一夜を明かした。
いや、その侭ここで果てた人もあった。
 
滝口秀隆さんの被爆体験と写真制作

 その朝、家の前に立っていた私は一瞬の爆風に吹き飛ばされて井戸の端に頭を打ちつけ気を失ったらしい。私の肩を揺すりながら名前を呼びつづける母の声で気がついた。当時私はまだ5歳であったうえ、頭を打ったためか前後の記憶が途切れ途切れである。 ともかく火を避けるのに川の中洲が安全だと考えたのであろう。母は1歳の妹を抱き、私の手を引いて川へ入った。突然激しい痛み、左足がひどい火傷を負っていて、川の水が浸みて痛むのだった。足だけではない。左の腕から手の甲、指までもひどい火傷だ。それでもとにかく川を渡らねばならない。母の首から背中も焼けただれて皮膚がさがっているのが見えた。
 中洲はすでに避難している同じ白島の人達で溢れていた。火もここまでは燃えて来ないだろう。しかしこれからどうすればいいのだろう。いろんなものが空から降ってくる中で不安な夜を明かしたのだが、私たち三人がどのようにして過ごしたのか、食べ物が手に入ったのか、などその時のことはほとんど記憶していない。

  
◇◇母の里へ帰る◇◇

 ともかく翌日か或は翌々日か、私たちは母の里の松永に落ち着くことができた。広島に大型爆弾が落ちたという情報を聞き、心配した伯父が捜しに来てくれたのに出会うことができたのである。また、当時軍隊で島根県に駐留していた父も、広島爆撃のニュースが入って一時帰省を許され帰ってきて、会うことができた。幸運が重なった。
 しかし、私たちの火傷はひどいものだった。特に母の背中はただれて、ウジがわいて、髪の毛もどんどん抜けていった。何日か苦しんだあげく、暗いところへ落ちていく・・と言いながらこと切れた。もう駄目か、と、みんな思ったらしい。ところが、不思議にも数時間後に母は蘇生した。生命力の強さというべきか、全く奇跡的に生きかえった。
 それに対して妹の方は暫くたってから病状が悪化してきて、三カ月後に亡くなった・・・ここのところは思い出したくない・・妹は母と私の死神をひとりで背負って逝ったのではないか・・と思うことがある。母と私とはその後、火傷の治療を除いては、いわゆる原爆症の症状は全く出て来ない元気な身体でいるからである。

 
◇◇辛かったケロイドの青春期◇◇
 
 一年後、私たちは白島にもどり、焼け跡にバラック住居を建て生活を始めた。小学校へ行くようになってからの私の最大の悩みは火傷だった。左手首から指にかけては特にひどく、当時はほとんど治療らしい治療が受けられなかったことで、手首の皮膚はふくれ上がり、冬にはそれがひび割れて痛んだ。
 白島小学校から幟町中学校へ進んで、思春期になると、手の痛み以上に心の痛みをいっそう強く感じるようになった。他にも被爆者はいただろうに、こんな火傷のある生徒はなぜか他にいなかったこともあって、いつも人から見られているようなコンプレックスを感じていた。

「どうして戦争なんかしたんだろう・・・
  どうして自分はこんな目にあわねばならないのか・・・」

しばしばそんなことを考え、自分の中に閉じこもりがちな青春期だった。当時の日本の整形外科は随分遅れていたのだが、やっと高校三年になって手術をしてみたら・・・という医師の勧めを受けた。腹部の皮膚を手首に移植するもので、経過は良かった。しかし腕と足とのケロイドは生涯消えることはないだろう。
*以上、滝口秀隆さんよりの聞き書き

 
 その朝そのとき私たち母子三人は白島の家の前に立っていた。
 巨大な火の玉が落ちた瞬間妹を抱いていた母は首から背中を焼かれ、 私は――
   ヒロシ マ の 心 を 

 写真を通してヒロシマの心を訴えたい。自分の原爆体験とそれにつながる少年時代の思い出。そして薄幸な妹への哀悼・・それらが滝口さんにヒロシマをテーマとした制作を続けさせるようになった。
「1977・広島・夏」を発表した時には大倉舜二渡辺勉、篠山紀信ら第一線の写真家から高い評価を、受けた(左の写真など)。その後リアリズム写真集団の一員として活動。93年には「被爆して生きる樹たち」を発表。この中で力強く生きる木の生命力を通して、滝口さん自身の凝縮したイメージを見ることができる。


   
▽滝口秀隆さん 現在安佐南区在住、61歳
 
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