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太田川聞き廻りの記

その十九 三田、川筋の集落と宿 2008年 4月 第84号

 ◆三篠川ってなんだっけ

 以前に本誌第45号の中で述べたことがあるが、太田川を初めとして、その支川も含めて、川の名前は一部の行政者が付けたものであって、流域で川の恩恵を受けて暮らす庶民の付けた名前ではない。どうしてこんな名前なのか不思議なのもある。特に『三篠川』などは合点がゆかない。広島の三篠町の脇を流れる部分が三篠川と呼ばれていた時代があるが、それなら理屈は通る。しかし、向原に発して三田・深川を通り中島で本流に合流する川を三篠川としたのは何故なのか?不明。

 近世、この川は本流より先に舟運を開いて活用されたが、当時の人々には川の名は必要なかった。当時の地図には長田村の範囲では『長田川』、三田村の範囲では『三田川』と書かれている。 (『芸藩通志』参照)

 近世から明治初年迄の約二百五十年問、この川筋の舟運は盛んで、三次方面から吉田を経由して来る米等が長田村の桧木浜で船に積まれるだけでなく、また近村からの米や薪だけでなく、現代の人からは容易に信じられない事だが、世羅、豊田、賀茂郡などからの米や鉄もこの川筋を中継浜を経て広島へ運ばれていた。水田耕作をする地域を流れる水量の少ない川だから、舟運は晩秋から翌年の春までの季節就航だが、それでも船の活躍は大きかった。

 
◆長い長い旧三田村

 「三田三里」と言われていた。実際にはそれ程まではなく、南北両隣村までの路の長さは近世でも二里十五町余り(明治以後の道路改修により二里三町弱となる、)だが、それでも当時広島からこの川沿いを通り、さらに可愛川の右岸に出て三次迄続く二十六の村の中では特に長い。三十町以上一里までの村でさえ五村だけだから、当時の人にとっては三田は長い村というイメージが強かったと思われる。広いのではなく長いのである。それにその中の集落の大きさは特に差もないためにその感じが強調されたのだろう。上に示した略図は川の両岸に続く集落の順序である。
秋山を通って川を下り三田に入ると、右岸に吉永、左岸に三日市があり、大きく左に曲がると轟瀬という最大の難所がある。この難所がある故に長田からここまでの船は早くになくなった。(左の写真・轟瀬)

 轟瀬の少し川下に入野(いんの)があり、ここに中継地の久保浜があった。(左下の写真)

 明治末年までは米倉や酒倉があったという。今も石畳は残っている。
  ◆船で下った三田川

 沿線に鉄道がついたのは大正4年。それで船運は終った。本流筋よりもずっと早い。そのため筆者の聞き歩きをした時期にはこの川での船乗り経験者は生存せず、三田船に乗せてもらったという人もごく僅かであった。

 籾蔵多造さん(明治37年生)は小学生の頃、父の友蔵が船を出す日は途巾の岡まで乗せてもらっていた。(当時の小学校は三田東小が岡にあった)。船には米、薪、酒粕などここの問屋の田川義助の荷を積んで、その荷の間に人が乗っていた。長田からの船が通わなくなってからは、奥から広島方面に行く大は夜明け前に籾蔵家へ来て、船が出るまで台所の囲炉裏の回りで待っていたという。つまり籾蔵家はなりゆき上、台所を乗客の為の待合室として提供していたわけである。

 この川は元々水量が少ないので、荷重の為に船底を擦ることが多い。川床には山で採ってきた歯朶を丸太に巻いたものを敷いてあった。船はそれを滑ることでカワラ(船底板)の損傷の軽減を図っていた。そうした仕事も船頭の仕事のうちであった。

 柳原(やなはら)の浜田春二さん(明治42年生)は祖父の善松(安政2年生)に乗せてもらって広島へ行ったという。相生橋で降りて鍛冶屋町に泊まり、翌日、船は牽いて帰るが、小学生だった春二さんは人力車で家に帰ったという。祖父が可愛い孫の為に大サービスしてくれたのだろう。船はその日は下深川の船宿にもう一泊して三日目の夕方に帰って来るのである。

 大正初年に入野には大道五一、迫田歓一、西岡松之助、西名徳一。鳥井原に向井関三、平井常八らが船持ちだった。鉄道が開業して船は姿を消すが、大道や迫田は馬車に乗り換えて運送業を続けた。この地域では既に明治16年に地元の土地持ちであり、また炭焼きや椎茸作りなどの研究家であった楢崎圭三が先頭に立って、従来の三尺幅の村道を改修して広島一三次間に12尺幅の荷車の通れる道造りを行った、ということが広く知られている。しかし船乗りや、その他一部にはこの改修に反対者もいたりして、特に三田村の中は荷車が完全に通るようになるのは他の地区よりも遅かったようだ。(『白木町誌』参照)
 

 
◆三田の宿から

 左の写真は柳原の浜田宿があった所(現在は建て替えられている)。明治に改修された十二尺の三田街道であるが、自動車の時代になると狭い道となった。この写真の左の広がりはここに沼尻嘉八の碑がある為で、道路だけの幅では車二台かすれ違うのが難しいことが見えると思う。(沼尻嘉八は楢崎圭三と共に、明治の道造りの時に尽力した入野の人物だという碑文がある)。写真の右側が川で、その対岸に現在は県道37号線(白木街道)がある。

 写真の中央位置が浜田宿だった。以下、浜田春二さんに聞いたことをまとめてみよう。

 宿を始めたのは祖父の善松だった。三田には他にも吉永に伊藤、栗原に永井が宿をやっていた。泊まり客は毎日あり、少ない日でも5人は泊まっていた。宿の仕事のため女中を雇っていた。宿泊者はほとんどが商人で、みんな顔馴染の人だった。海田や船越から魚を売りに来る人、海田の梅本という人が特によく来ていた。この辺で売って歩くのである。広島からは岡田という人がよく来た。荷車に佃煮、海苔、味噌などいろんな物を積んで来て売って廻る。その頃「うまいもん屋」と呼んでいた。伊藤や永井でもそれぞれお得意の商人を泊めていたのだろう。

 なお、前記の三軒の宿の他に、海戸(かいと)の河野が宿をしていたともいう。これは『白木随筆・第41号』に出ており、明治末に海戸の浜で小谷馬吉と河野豊八とが共同で船運送の問屋をしていた。この浜に集まる船は15艘おり、それが二組に分かれて一日おきに出ていた。小谷がその事務をやっていたので、河野はその他の仕事として旅人宿もしていた・・という意味の記述がある。船は何れもその地区の持ち船であるから、宿の宿泊客はやはり商人が主であったのだろう。

 
◆三田のこと他に二、三

 昭和31年9月、三田村は志屋・井原・高南の各村を併せた4村の合併で高田郡白木町となり、さらに昭和48年10月に広島市と合併した。現在は広島市安佐北区白木町三田である。三田に鉄道が通ったのは先にも述べたように大正四年で、芸備線と呼ばれるようになったのは昭和12年、芸備鉄道が国鉄に買収されてからであった。最初は三田の駅は中三田だけで、広島ヘー日4往復、三等運賃38銭であった。ガソリンカーが走るようになって、昭和5年に三田吉永駅が出来た。ガソリンカーだけが停まる駅であった。しかし昭和17年には全部が蒸気機関車となり、この駅は廃止された。戦後、昭和23年に上三田駅となって復活した。また白木山駅が昭和38年に、設置の費用全部地元負担として造られた。白木山を観光資源としようという意図であった。(『駅長さんの書いた駅名ものがたり』参照)

 以上、長い長い三田のことを短く短く拾って、しかも中三田以南はないので、こりゃ何じゃ!と怒られるかとも思うが、また別の機会に述べることに・・

  
(幸田)
 
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