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太田川聞き廻りの記

その十八 茶屋と宿 2008年 3月 第83号

 ▼安から峠へ

 以前に『後山の変貌』と題して1頁書いたが、今回はその前後を含めて茶屋と宿を述べよう。

 古市から安川右岸を遡って安束へ入る橋を渡った、今の農協の位置に渡部旅館があった。筏乗りは広島の材木問屋で筏を引渡した後は、その日の宿泊は時間によって三通りの選択があった。1は遅い場合。これは広島で鍛冶屋町とか横川とかの宿に泊る。2はここ迄帰って渡部旅館に泊まる。3はもう少し速い時には更に延ばして、間野平迄帰って増田宿に泊まる。という三通りである。筏は船とは違って、下りの途中で1泊する。さらにその日の川の水量や、障害物との出会いや、下流ではその日の干潮・満潮の時間との関わり、その他にも船とは違った面倒もあって、帰る時問が日毎に一定しないので、泊まる場所も変わってくる。

 安東の橋を右岸から渡った今の農協の位置に渡部旅館があった。タマノーイシーナツコと三代続いた母系で、ナツコさん(明治36年生まれ)の話しでは、大正末頃の宿泊客数は一日平均で筏乗りが6〜7人、商売人が1〜2人だった。昭和16年迄に廃業した。

 安からの道は峠越えとなる。現在の多くの地図はこれを萩原峠と書いている。途中に萩原という集落があるからだろうが、地元の人の間ではそんな地名は使われていないし、古い地図には「峠垰」と書いてある。「とうげだお」である。今も少し川平側に下りた所に峠集落があるが、昭和41年までここにも4軒の民家があった。明治末にはこの峠の上に12軒あったという。

 昭和41年に4軒は立ち退きになり、5年後の46年に安佐動物公園がここに出来た。4軒のうちの井手本家はその少し下に居を移した。そこの主人である井手本勝都さんの話しでは、頂上付近の4軒のうち、力石と松尾の2軒は頂上より少し南の安側にあって、2軒とも食料雑貨の店であった。創業はいつ頃か知らないが、同じような店でお互いに競争していた。自分の家は頂上にあり、その北隣りに木賃宿の栄があった。ここには木挽職人とか、地元小学校の独身の教師などが長期間泊まっていた。木賃宿と言っても、自分で炊事して食べるのではなく、ハナという女将がやっていた。

 この栄宿はハナが亡くなって後は、栄家より北に下った所の樋口家に嫁いでいた妹のヨシノが少しの問だが、代わりに泊めたこともあったと言う。

 力石はちえ。松尾はみつというどちらも女将の経営する店で、その創業は不明だが、芸藩通志の村別地図にはこの峠の手前は「茶屋ヶ原」の地名があるから、当時既に茶屋のような店があったことが推測される。

 昭和46年、ここは安佐郡から広島市に編入され、その年に安佐動物公園ができた。さらにその5年後に「あさひが丘」団地が造成され、ここ後山一帯は大きく変貌した。道も川平への筋はほぼ元の道があるが、毛木への筋は変化が大きい。元の道は動物公園の西側を廻るように通って、もう一つ先の「ちきりの峠」を越え、毛木へと下っていた。

 
▼ちきりの峠

 この「ちきりの峠」の地名について、ある本に、そのいわれとして、伊都岐嶋冲が千の峰を求め歩き、この山の頂上に住まいを決めようとした。しかし頂上に立って周囲を見渡したが、探していた峰の数が千には少し足りないことが判り、仕方なく海を渡って厳島に住むこととなった・・(つまり、数が千を切るということ):と書かねていたが、これはどうも昭和の時代に一部の人が勝手に創作した話しと思われる。チキリは膣という宇をあて、古来の機織りに用いた道具で、経糸を巻く中央部のくびれた木の棒の呼び名。そこの地形が連想させるのであろう。この地名は他にもある。西国道の大竹〜廿日市間にも、ちきり峠と呼ぶ難所があったはずだ。それはともかく、ここ後山のちきり峠には、土井二蔵さんの茶屋があり、「にぞうさんの店」と呼ばれ、特に筏乗りの間で親しまれていた。遠慮なく立ち飲みのできる店だったようだ。そこからは下りで、毛木でやっと太田川に出る。そこまでは元の三等県道であった。飯室方面の人や鈴張を越えて壬生、有田方面へ行く商人はここから川を渡る。

 
▼間野平の筏宿

 加計方面へ帰る人たちは途中から西へ入って川井に出る。川片は戸山方面から流れて来る吉山川が太田川に合流する地点であり、合流点に架かる脇田橋を渡ると間野平である。広島を昼頃迄に出て帰途に杵いた筏袁りは、ここ間野平の宿に泊まった。

 太田川のほとりの店や宿は、加計より川下の澄合までは左岸にあり、それから間野平までの問は右岸に、さらにそれから川下は、ずっと河戸まで左岸に続いている。これは河畔の集落のつながりのせいもあるが、それだけの理由でもないようだ。その中で筏乗りの場合は、行きも帰りも泊まるというのがこの間野平であった。間野平の宿は増田と岡村の二軒で、北屋の屋号で呼ばれた増田は伴蔵−千代吉−重穂と三代続いた宿であった。重穂さん(明治35年生)によれば、今の家は大正13年に建て替えたものだが、その頃には筏乗りの多くは自転車で帰っていたので、泊まるのは下りだけだったが、正月以外は毎日10人近い泊まり客がいたし、その他、商人や芸北方面からの買い物客などもいた。料金は30銭以下だったが、米騒動の時期には二倍くらいだったと言う。泊り客が減ってから、重穂さんは発電所に勤務することとなった。

 岡村宿の方も創業は明治初年のようだが、辰平の嫡子甚太郎が明治38年に日露戦争で戦死したため、その妻だったチヨノさんが最後まで宿を守った。岡村の方は筏より商人の泊り客が多かったようだ。

 
▼ 野冠の船宿、内藤家

 問野平の先は地獄谷にかかる。嶮岨な道を歩いて野冠に、さらにその先に宇賀、瀬谷、鹿之巣の集落が続く。野冠には4軒、鹿之巣には5軒の宿があったが、これは全て船の宿で、加計筋・水内筋の船が帰りに泊まる宿だった。ここでは野冠の内藤アサ子さんから聞いた事を書いておく。上流の船運は昭和初年にはなくなり、大正6年生まれのアサ子さんの見たのは子供の頃の事であるが、また子供故に印象に残っている面もある。

 内藤姓は野冠に6軒ある。アサ子さんの父は角郎で、その先代の彦平までは西本屋といっていた。角郎(明治10年生)は主に山仕事ををしており、母のヨシが子供達にも手伝わせながら船乗りの世話をしていた。4軒の宿に泊まる船はそれぞれ船組が決まっていて内藤宿は加計組の船が日によって5艘〜20艘泊った。つまり、多い日には40人の船乗りが来ていたわけである。

 晩飯は5升炊きの大釜2つで炊き、それをおはちに入れておくと各自が注いで食べる。1人がほぼ3合食べた。献立は野菜の煮物となます、タクアンか京菜の漬物。酒はその場で注文されて、アサ于さんが近くの渡商店へ使いに走っていた。当時は米100%の飯を食べるのは船乗りだけだった。船乗りが持ち歩く3升入りの大弁当箱のカンナギには、宿に着いた時まだ少し飯が残っていることもあるが、彼等は宿の温かい飯の方を食べるので、カンナギの残り飯は家族の囗に入る。普通は家で50%以上の麦飯を食べているアサ子さんは、これが楽しみだったという。朝は朝飯の他にカンナギに入れる飯も炊くから、宿の仕事は早朝から大忙しで、母は2時間くらいしか眠る時間がなかったのではないか、とアサ子さんは言う。

 内藤家は8人の子がいて、アサ子さんは6番目。それぞれ仕事を分担して働いていた。アサ子さんの仕事は風呂焚きと、便所のおとし紙にする木の葉(樫の葉)を集めること。毎日のことなので嫌な仕事だった。帳面や雑誌の占いのがあるとほっと安心した。学校の宿題などは風呂の焚き囗に小さな台を置いて、そこでやっていた。

 今の家は昭和34年に建て替えたが、それ以前の建物は図のような配置で、家族は別棟に寝起きしていた。宿を廃業したのが何年かはっきり記憶がないが、父が昭和10年に亡くなり、その年にアサ子さんは広島に出た。それより数年前には廃業していたはず、という。
(幸田)
 
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