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太田川聞き廻りの記

その十七 消えた道と村 2008年 2月 第82号

 ▼城下見に行こ十三里

 城下見に行こ十三里。炭積んで行こ十三里。と小唄に謡うという十三里を、城下の泊りからとぼとぼと、三里は雨に濡れてきた。」

 鈴木三重吉の『山彦』の冒頭の一節である。三重吉は23歳の時、病気療養のため東京の大学を休学して故郷広島に帰っていた時に加計を訪れ、吉水園に数日逗留して遊んだ。後に束京へ出て明治40年にこの『山彦』を発表したが、その舞台がここで、主人公の礼さんが村の裕福な家に嫁いだ姉に逢うために訪れるという設定になっている。この冒頭の一節の小唄というのはメルヘン風な唄だから、三重吉の作った詞と思われるが、十三里は実際の里程か単に語呂のよい数を嵌めたのか?ということだが、炭を積んで行くとか、礼さんが明日は船で城下に帰るということを末尾に言っている事などを見て川の里程のようだ。実際に加計から広島の相生橋までの川の距離を測ってみると55キ囗余り、十四里弱だからほぼ近い。しかし三重吉が歩いた往路はもっと近道だったはずである。それを考えてみよう。

 
▼明治初期の県道


 初期の県道について「山地における交通形態の変化」(『史学研究』第63号西村嘉助)の中では広島〜加計間について「明治十四年広島県管内全図には、三等県道として広島−祇園−上安−峠−毛木−川井−船場−加計と続いていたのが、明治32年地図ではこれらの道は県道でなくなり、太田川沿いに新しく設置されている」と書いている。この三等県道の所で不可解なのは、毛木から川井までは右岸だが船場から左岸に移っている。当時は太田川主流には八木の太田川橋より川上には橋はないから船で渡ったはずである。県道扱いの渡し場は水内〜久日市を結ぶ位置(後の安水橋の位置)迄はなかったと思うのだが・・。県道が川沿いになったのは車が急坂より平坦な道を望んだからで地元の多くの人にとっては坂はあっても距離の近い方を歩いたであろう。上安―峠−毛木の道は多くの筏乗りが広島からの帰路に通った道であり、麻の買いつけの仲買人や様々な商人の道であった。それを通った人から聞こうと探して歩いたことがある。

 ▼中倉道

 古くからあったが三等県道に設定にされなかった道がある。上の地図で述べる。(川井は間野平に隣接するが右下に続く。)間野平−野冠−宇賀−瀬谷−鹿之巣―追畸と続く右岸集落は旧久地村、対岸の来見―船場−澄合は旧穴村で郡も異なる。この間は太田川の特に曲折の大きい所だから、歩く人なら誰でも近道はないかと考える。昔からあったのが中倉道と呼ばれていたもので、瀬谷からA〜B〜C〜島木、さらに津伏へ通じる。Bが中倉、Cが段原という数軒だが人家があった所なのだが、それを書いた地図は『芸藩通志』の村別地図しかない。段原の方は穴村の中にこのように郡の境界線に接してあり、津都見と島木とへの道がある。さらにそれと並べて「中倉越エ」と説明が付いている。ところが久地村の中倉の方は殆ど瀬谷と続いていて、諸方からの情報とは合わないので、この辺りではないかと想像した。何にせよ中倉越えと呼ばれる山道があり、そこに住んでいた人かおり、山中にもかかわらず山畑もあったという。

▼『松落葉集』にも選ばれる

 もう一つ歴史的史料がある。明和5年(1768)に加計の隅屋十五代の八右衛門が太田川上流の景勝五十三ヵ所を選び画家に描かせ、これに各々漢詩、和歌などの賛を書いて『松落葉集』の題名で版刻させた。八右衛門が亡くなって後に十六代の正任が4年後に版刷りさせて印刷した。賛を書いた作者は60人で僧侶、村役人、郡廻代官、一般人、隅屋一族5人など。その中に「中鞍嶺」がある。(左の図)倉と鞍、字は異なるが同じ所に違いない。しかし人家のある所へ段原の方から越える峯なのだろう。漢詩の作者順乗は久地の人だと書いた資料があるが、それ以上は分からない。詩の内容は山が険しく、道は曲折あり、たとえ此処を王が越えるため馭者を叱責しても難しいであろう・・ほどの意味か? また、両家の名は不明で、詩画集全体を見ても実景を見て写生したとは思えない。しかしこの場所が五十三景に選ばれる程の阻しい山中を行く道であることは想像できる。

 ▼山中に広い田畑

 中倉や段原がどういう集落で、何時なくなったのか。またその阻しい道はどうなっているのかである。山県郡には橘中里(きっちゅうり)のように離れた山村の中でも近世既に人里離れたお伽話のような里と言われた所もあったが、中倉は現在広島市の久地村で二丁五反の田があり、生活道もあった所なのだがどうしてなくなったのかという事である。

 初めに筏乗り経験者などから中倉道の話しを聞いた筆者が、現地近い集落で聞き取りをしたのは20年も前のことだ。まず、津伏の菊村清三さんの話しで砂山順六という人が段原から下りて来て、このしもの家に住んでいたが、もうかなり前に死んだという。名前だけは記憶されていたが、それ以上のことは津伏の他の人達からも聴取できなかった。瀬谷の森下博さんの話しでは、中倉の人は瀬谷の講中だったが、段原は安野にあっても講は津伏に入っていたのだろうということだったので、砂田氏が津伏に移ったのもそういう馴染みがあったのか。次に津都見の小田正喜さん(大正5年生)の証言。小田さんは小学生の頃、父親について段原へ時々行っていた。段原にはその頃既に人は住んでいなくて、家だけ二軒残っていた。そこに居た人の名は父が話していたはずだが覚えていない。しかしそこに居た人から了解を得て残っていた田畑を耕作させてもらっていた。田が六反、畑が四反あった。津都見から段原までは登りは四十五分くらい歩くようだった。父が行かなくなってその耕作はやめたから、昭和2〜3年までだったと思う。山の頂上近くにある田畑だが、周囲の峰から水が出ていて、田はフケダだったから収量は僅かだった。中倉の方の山はもっと広くて二丁五反はあったと聞いていた。これもフケダだったようだ。

 次に中倉のことは瀬谷の高田茂市さんが元の住人だと聞いて訪ねたが、1年前に89歳で亡くなっていた。奥さんの話しでは茂市さん(明治35生)は15歳の時に一家で現在地に移った。高田家が最後に中倉を離れた家で、それまでの中倉には6軒あったらしい。自分が結婚した後、茂市とともに中倉−段原−津伏を通り、水内から筒賀、殿賀と山道ばかり歩いたことがあるが、茂市はそういう山の道に詳しかった。中倉は峠よりこちら側だが、そこ迄の道は険しくて一時間以上かかったような気がした・・と言う。(そんな時間がかかるのなら距離はあっても川沿いを歩いた方が早いのでは?とも思うのだが・・)

 もう一人、森下博さん(大正10年生)によれば、段原には名は知らないが茶店があって、筏乗りらが寄って一杯飲んで帰っていたらしい、という。この話しは筒賀方面の筏乗り経験者からも聞いたことがあった。

 ▼筏乗りの近代化も影響

 結局、段原や中倉は大正年代のうちには無住になったが、その後もこの道は水内、加計方面への通路として生きていた。しかし筏乗りたちは筏の上に自転車を槓んで下り、帰途はそれに乗って県道を帰る者が増えてきた。この現象は山間部の過疎化を促進させる一因となった。昭和の時代になって通行人は激減し、また食料不足の時期に瀬谷から中倉の耕地を作りに行く人もあったらしいが、一時期のことであった。

 さて、幻となったこの地区は今どうなっているのか。筆者はそのあとを辿るべく瀬谷から谷川沿いに少し登って中倉道の別れまで行ったことがある(上の地図のA地点)。そこが左の写真である。この道を見たとたんに思った。これはかなりの道だ。一人で入るには心細い。それにこの奥なら熊さんに出逢うかも知れない。熊語が話せないために礼を失してはよくないだろう、と諦めた。オフロードバイクに乗に乗る人なら行ってみるとよいのでは・・。

 そこで初めの「山彦」にもどるが、当時三重吉が歩いた行程の一部にこの中倉道が含まれていたかどうかは今となっては分からないけれど、段原の茶店で道草をくって雨に降られたのかも知れない。明治中期までの道の観念はその後の人たちのそれとは隔たりがあるように思えるのだがどうだろう。
 
(幸田)
 
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