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太田川聞き廻りの記

その八 荷車稼ぎの車 2007年4月 第72号

◇荷車を挽く前に 

 近世、大坂では運送に「べか車」、江戸では「大八車」と呼ぶ二輪車や「地車」と呼ぶ低い四輪車が使われていた。広島の近辺ではごく一部の郡部で使われていた記録がある。しかし道を傷めるから小型にするようという制約があったし、また殆どの地域では人と馬が通れる幅の道しかなかったから使いようが無かったし、城下の町では車の轍が道路や橋を傷つけることから、祭りに山車を挽くことはあっても荷物の運送は許されなかった。

 なお、一つの時代劇の時代考証に触れておきたい。今色々な時代劇映画に荷車が出てくる。たとえば「銭形平次」の劇中に町のあちことに荷車が置いてあるが、実際にはあれは明治以後の荷車であって、当時の大八車というのは4人がかりで挽き押しする大きな車であり、町人長屋に置いておくようなものではない。そういう時代考証のおかしさは馬についても言える。当時の馬は小さいし馬蹄も付けていないから、走ってもあんなに高い音はたたないはず。これは単に主人公をかっこよく見せるための単純芝居かしれないが、そう思って見るとばかばかしい。

 さて、幕末のぎりぎりの頃か?鉄の轍を嵌めた車が造られ始め、急速にその技術が広まった。明治の十年代はまだ押し車あり、引き車あり、手木のあるもの、無いもの色々だったが、やがて手木が二本の引き車になる。大阪などではずっと昭和年代まで一本手木だったようだ。そして荷台の面積で大・中・小車の規定がなされ、税額が決まる。大車は重量で道路を傷めるのを軽減するよう轍の幅を二寸にするとか(県及び時代によって違いがある)、車検を受けて荷台に焼き印を捺されるとか・・それ以前の問題として、誰でも簡単に車のオーナーになれるものでなく、問屋の親方に車を借りて仕事をして日当をもらう者も多かった。そのような労働者を「車力」と呼んでいた。自分で車を持っている労働者が「車挽」なのである。

◇出雲街道広島通い

 西城の人である上田新六(かみた)さんは郷土史に興味を持ち、『明治大正覚書』という表題で上下二冊、併せて三十一話の手書きの記録を残している。そのうちの一部は活字として西城郷土史研究会が会誌『郷土』に出している。その中に「明治時代の車挽」というのがある。父親が車挽きで、広島に荷車で出るのについて行った子供の頃の思い出を書いている。概略を述べると、当時の荷車仕事には山から木材を運び出す者、西城から庄原や吉舎へ通う者、遠く広島まで行く者、など行き先の違いがあり、広島通いにも自分が挽く者と、親方の車を挽いて親方について行く者とがあった。行きは木炭を積んで出て三次で一泊、次の日は大林で二泊目、三日目に広島へ入り問屋で荷物を降ろして左官町で泊まり、翌日は上り荷集めかたがた町を見物してもう一泊する。帰途も往路も同様に大林と三次で泊まって、西城へ帰りつくのは七日目になる。上り荷は野菜、果物、菓子、干魚、石油などで、往復一週間もかかる行程だが結構当時はそれで生活できていた。

 長い道のりだが、各地からの広島通いの荷車は多いので、道端には車挽き相手に塩餡の餅などを売る家が沢山あり、また吉田から上根の間には車の前挽きを手伝って賃稼ぎする人夫が沢山いた。

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 この道筋、明治三十年代後半期になると荷馬車も登場する。明治39年11月22日の芸備日日新聞に「三次−広島間の荷物輸送」という見出しの記事がある。 「三次・広島間における陰陽交通道路は近来一層の繁盛を来たし、此間を往復する荷車のみにても総数二百余輌となり、之に加うるに一昨年頃より開始したる荷馬車も近来増加して三十余台となり・・米十五俵を積載し三次を早朝出発して可部町に一泊し、翌日十時前後に広島西本川に着、荷揚げをなして食塩其他の貨物を積載し帰るを例とし、其夜は可部町に達して宿泊するものにして頗る便益なりと・・」

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 さてこの道であるが、このコースには上根〜大林の難関がある。近世に脇往還として七尺幅であったのが明治になって出雲街道改修工事が行われ、23年には三間幅の道となる。しかし海抜286メートルの上根峠から80メートルの断層崖となっている根の谷はいわゆるつづら折りの坂道。この谷は内陸からの霧を切るので「霧切谷」と呼ばれたが、その道を通るのもきりきり舞いするようだった。

 先の上田新六の稿にあったように、荷車挽きの手伝いで稼ぐ人夫が沢山いたというのは頷ける。自動車もこの峠道には苦労した。大正2年に芸備自働車合資会社(自動車ではなく自働車だった)によって広島〜三次のバス運行が始まるのだが、その二年後の大正4年3月28日の中国新聞には次のような広告が載っている。

「・・是迄上根ノ峠ヲ昇降リノ際自働車ヨリ下車セシガ、発動力強キ為下車スルノ虞ナシ・・吉田二円。三次三円。雨天ニ限リ一割増ノ事・・」

 国道54号となっても冬の路面凍結や積雪での困難はやはり続いていた。現在、大林浜ヶ谷〜下根が三つのトンネルと四つの高架橋とによるバイパスとなってこの道も大いに変わった。ところが交通が変わったのとは逆の変わりようをした面もある。そのことに少し触れてみよう。

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 大林を北上して根の谷集落に入り、さらに根之谷川沿いに行く。道は大きく左に曲がる緩い坂。昔の道は54号とは少し離れてありその道に面して民家が点在していた。やがて54号は根之谷川を跨いでヘアピンカーブして、いよいよ曲折の多い急坂になる。峠に近い道端には転落事故を悼む地蔵さんも祀ってあった。昭和初年のこの辺りの人の暮らしを書いた資料があるので引用させてもらおう。これは可部郷土史会の会誌『かんべ』三十一号(昭和60年発行)の所載である。地図を参照してご覧頂きたい。


「上根の谷の今昔」(池崎蓮生)


 上根の谷は俗称を幅(葉場)と云い、明治24・5年頃から昭和10年頃まで今の54号線ができるまで大変賑やかであった。それまでの道は可部から上がると、あの急峻な霧切り谷を眼下に見て上根まで上がっていたのである。

 大正の頃川辺に浮田という歯ブラシ工場があり、少し下がって河野というボタン工場があった。

 道路に沿って、新宅民蔵さんの家では飲食店をする傍ら駄菓子などを売っていた。香川甚六さんは炭専門。細田亮逸さんと谷本三次郎さんの亮家は主に薪を扱い日用品も売っていた。近隣の村、畑、向山、平原あたりから百姓が持ってきたものを仲買していた。薪は櫟、楢などは上木で、竹の輪で束ねてしっかり叩き込んで十貫目が廿~二十五銭。その他の雑木は中木で藁縄で束ね、十貫目が十五〜十六銭であった。生木は同じく十貫目が十七銭で専ら西洋クド用で馬車で広島の問屋へ送る。上木、中木は大林から毎日杉田佐市さん、桐本長さん、川本千代吉さんらが来てこれらを荷造りし、大八車や中車で可部の得意先へ売りさばいた。鍛冶炭は鋳物屋へ売れた。

 その下流西側に三間が並んでおり上の家は平岩勇次郎さんで米の仲買。中の家は宿屋の立野さん。後には土肥という娘夫婦が継いで宿屋営業をした。下の家は久保さんで、おかみさんが飲食店と駄菓子屋を営み、主人は客馬車屋で客が七、八人たまると場所を出す。可部まで片道が二十五銭、可部から帰るのは三十五銭だった。駅まで行き軽便から降りた客を拾って帰るのである。

 人力車もあった。中本保太郎さんと河本和作さんで、可部まで三十五銭、帰りは少し高かったようである。これは主として可部で買物する旦那衆を乗せていた。たいていの人は人力車にも馬車にも乗らなかった。

 畑の方から木を背負って出て、肴や酒が欲しい人は上根まで行って香川店(酒、酢、醤油)や神田魚店で刺身を買って帰った。また上根の床屋の石井吾次さんは大坂で修業したのが自慢で腕も確か。理髪は十銭で十五銭なら粋な左分けのハイカラさんにしてくれた。

 あれから五十年が過ぎた。今は全くの農村にかえったこの谷をバスで通る度に、あの頃のことがしきりに思い出されて懐かしい。
 
◇加計筋荷車・荷馬車同業

 さて、今度は加計筋の荷車・荷馬車運送のことに及ぶが、荷車の初期である明治22年の山県郡内の統計表があるので、その中から対照的な村を一部抽出してみると

 明治22年の加計筋ではまだ荷車は入ってきていない。他にこの数字で判ることは加計の運送業が五しかないのは問屋の数で、すべての船乗りは二人が一船でその問屋に従属して働いていることである。穴村(安野)の方は多くの船乗りは自分で船を持ち、自分で貨物の売買をしていたということである。

 加計筋に荷車が活動を始めるのは遅く、年代差を開けずに二輪荷馬車、さらに四輪荷馬車も活動し始める。重田信一さん(明治40年生れ)は父親今蔵が宇佐の道端で明治30年代後半から飲食店をやっていた。対象は運送労働者が主で、筏乗りの広島帰りもいた。家の前に停めてある馬をいつも見ていたが、大正中頃自分が少年時代には二輪馬車も四輪馬車も、さらにまた、背に米俵を二俵付けて運んだ帰りの馬もいた時代だったという。

                                      この稿続く・・

幸田光温
 
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