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太田川聞き廻りの記

その七 吉和の巻 2007年3月 第71号

◇馬追いのこと 

 吉和村は太田川本流(吉和川)の源流地域だが、それだけでなく支流の筒賀川・水内川もここを源流としているし、また大竹に流れ出る木野川(小瀬川)にも一部関わっている。今までに木流しや筏乗りの話を書いたことがある。あの木流しは吉和の山で伐り出して川へ入れ、戸河内の須床で筏に組んで太田川に流した。その仕事をするために山県郡から毎年吉和の山に入る人がいた。一方、吉和村内の人々の仕事は農業の他に炭焼きとその炭や木材の運搬であったが、しかしその運搬方法は川に流すのではなく、人の背、馬の背によるものである。小荷駄馬(こだうま)と呼んだ。そのルートは中津谷から汐原、焼山峠を経て所山まで三里の距離であった。

 所山から先は馬車道が早くからついており、所山に五、六軒ある問屋の前には馬車が列をなして並んでいたという。所山から津田を経て廿日市までの距離は六里で、津田〜廿日市間は客馬車も営業していた。運送の目的でなく、歩いて廿日市や広島まで行く人は多田村から玖島を経て廿日市へ出るルートもあった。何れにせよ太田川を下ってゆくのは特別な仕事の人に限られていた。

 「山県道はあまり利用せんだった。山県廻って広島に出るいうたら大変じゃ」(『吉和村誌』)というのが一般の通念だったようである。

 所山は当時は宇佐(山口県)からの荷物も県境の松の木峠を越えて飯山を通ってやってくる。中継基地として繁盛していたようだ。良しわでは「食うもの出すもの、みな所山から。」と言っていた。

 『吉和村誌』からもう少し当時の村人の話を拾ってみると、

 ◎十五歳頃から仕事を始めた。板を十二貫目くらい背負うて中津谷から所山まで行ったり、炭の八貫俵を一つ背負うて行っていた。炭は二十二銭。焼いた人から十一銭の運賃を貰う。所山の店で二銭の豆腐汁を吸うて、九銭だけ懐へ入れてもどりよった。

 ◎馬に八貫目の炭を四俵負わせ自分が一俵負うて行き、併せて五俵運んで四十〜五十銭の稼ぎになったが、そのうちから馬に食わせる麦一升と糠など十四〜十五銭分出し、自分は豆腐汁の二銭とワラジ代の二銭を払う。

 このような荷運びは吉和の人の専業ではなくて、高田郡から「荷持ち」と呼ぶ特殊な背負い梯子とかんこう杖を持った背負い人が来ていたという。

◇佐伯郡の中で

 左の地図は明治14年の「広島県佐伯郡治要覧」という当時の佐伯郡書記の描いたもので、明治中期町村の位置を大雑把に見ることができる。(『廿日市町史資料編』より。一部分省略)

 国道は己斐、五日市、廿日市、大竹を通る一本。県道は五日市より保井田、伏谷を抜け、菅沢から水内川沿いに下るものと、廿日市から宮内、友田、津田、栗栖を経て県外宇佐に出る二本だけ。吉和村は北の稜線に沿い、随分広くて十方山、冠山を含め四方に流れてゆく川があり、東西五里拾一丁、南北五里弐拾丁面積では郡中最大の村であった。しかし道路として造成された道はない。つまり当時の人は馬が歩く径の他はない、荷車の通れる路はなかったわけである。

 でも人の出入りはいろいろあった。天然の資源の豊かさゆえに他郡から杣や木挽、製材、運送などの職人たちが入ってくる。その他にも石見地方から県境の山越えをして山陽側に出てくる人たちの通路でもあったため、宮島参りの一行が通過の際にはいつも此処で一泊して行ったという。

 村民の暮らしは農業は当てにならないが、炭焼きが仕事になっていた昭和二十年代まではとにかく生活が成り立っていた。

◇吉和の宿


 主川(中津谷川)が本流に合流する地点を中津谷と呼ぶ。ここに玉屋の屋号で呼ばれる宿がある。三六−良次−(弥三郎)吉助−武美と続いた明治以前からの宿であった。当時は家の前に何頭もの馬を繋いでおくようになっていた。木賃宿で樽・桶用の木材を山から運んで来た人が泊まり、さらに地元の馬追いがそれを此処から所山へ中継する問屋的な役割もしていたようだ。夏の間は大和から樽造りの職人が来て住み込みで仕事していた。さらにまた、秋から春にかけての間は木流しの業の人たちも泊まっていた。

 中津谷には他に柳生旅館というのがあったが、柳生の方は行商人を泊めていたようだ。

 また、田尻には森本祖七の宿があった。昭和の初年までの営業と思われる。他の地域から来ている木挽職人が長期間止まって仕事をしていた。行商人、特に石見地方からの若布や干魚などの行商がよく泊まった。木流し職人の常宿でもあった。

 中津谷から東へは花原、田尻、市垣内、駄荷、立野、下山と続く各地に一、二軒の宿があったようだ。現在は立野、下山地区は一軒の家もないが、昭和初年までは立野(たちの)に七戸、下山地区には併せて六十戸あった。(下山地区は立岩貯水池の建設により立ち退きになったが、かつては川の右岸に広瀬、三之原、立岩。左岸には一之原、二之原、大畑の集落があった。)
 
◇世帯数の推移

 吉和村の世帯数が最も多かったのは大正9年であるが、明治中期から昭和30年代半ばまでは大きな波はない。それ以後急に減少している。これは他の山村の場合も共通した現象である。次に一部を抽出して表にしておく。

「ここはええ所じゃが、悪いことに仕事がなあ所です。昔は炭焼きがあったけえ仕事もしよりましたが、炭焼きがだめになりましたけえ・・昔は一つ山で十七窯ぐらい築いたりしよりました。ほいじゃけえ朝はこの道を山行きがだらだら続きよりました。女はスゴを編みよりました(炭俵)・・今は人に使うてもらわにゃあ、我が家にゃあ金儲けはないです。」

他郡からの移入

 村外への移住は多いが、村外からの移住した人もある。鈴政の姓は戸河内村の打梨地区の殆どの家が明治以後この姓を名乗っているのだが、駄荷の国吉屋も鈴政性で明治中期に打梨から移住したという。助市氏(明治30生、写真)によれば、父の新吉の代に来たもので、木出し・木流しの仕事の便で此処に住み着くことになった。夏には八郎川を二時間も遡った山々で伐採した木を川辺まで出す仕事。秋からはそれを川に流す仕事にかかる。枕木二万丁を流すとすれば水につけてから戸河内須床までは25日ほどかかる。その間を中津谷の玉屋−田尻の森本−駄荷の鈴政−立野の龍野−前城の福村−打梨の鈴政、と泊まりながら下って行く。我が家には毎回25人くらいが7〜8日間泊まっていた。上流の宿ほど水量が少ないために泊まる日数が長くなる。駄荷で木流しの仕事をしていたのは自分と弟の二人だけで此処の人たちは馬の背に板を載せて所山まで運搬する仕事をしていた。この板は主に下駄のはまにするブナ材だった。ここより上には木流しの同業はいなくて、みな戸河内の者だった・・・(鈴政助市氏談・1982)
 

◇最上流の簗

 漁の中でも簗漁というものは規模が小さくても構築に土木作業を伴うものだから少なくても10人以上の協同作業と、木材、石、竹などの資材を必要とする。となるとその漁獲による収入もある程度はなくてはなるまい。それは簗は川漁の中では一度の漁獲量は最も多いものだから、それに対する税額も高く、明治31年迄年額が4円、以後は川の場所によって4~18円もの額を支払わねばならない。太田川での過去の簗の設置個所は何処に、いつの年代・・ということになるのだが、筆者の調査し得た限りでは、明治以後の県告示資料などで見て最上流は場所は戸河内吉和郷(筌は鱒泊、堰筌は打梨にもあり)となっておりこれは明治36年でそれ以前の記録が見つからない。しかし口伝によれば駄荷にあったらしい。明治中頃までで終ったのかもしれない。筌(うけ)や堰筌は簗のような大規模なものではないから混同して伝えられたとも思えない。

 かつて太田川を魚が自由に遡上し下降していた時代には河口から90キロほどあるこの地にもアユは上っていた。簗以外にも戸河内に住む鵜使いが鵜を連れて来て漁をしていたという話も伝えられている。

 坂口藤雄さん(大正13生)は立岩ダムができるまで下山の広瀬に住んでいた人である。その坂口さんによれば昭和の初めにもウナギ、アユ、マス、イダ、などが沢山いた。マス(アマゴの降海型・サツキマス)の巨大な姿をしばしば見ていた。アユは廿センチくらいの型が多かった。ナマズは山県までで下山にはいなかった。ギギュウは下山が上限で駄荷にはいなかったと思う。と語っている。

 現在、所山も変わったが、吉和も大きく変わった。経済も人も地名も、魚も・・
 
幸田光温
 
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