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太田川聞き廻りの記

その六 下駄造りの巻(二) 2007年2月 第70号

◎落合と八木 

 明治22年に町村の統合が行われ、沼田郡30カ村が15村に、高宮郡1町31村が1町12村になり(1町は可部)、さらに明治31年には両郡を合わせて安佐郡となる。また40年には三篠村が三篠町となって安佐郡2町26村となった。明治43年の『安佐郡報』によると安佐郡全体の戸数は15,287戸となっている。

 この年の郡内の下駄生産の状況を数字で見ると左の表のようになっている。これは一万足以上の町村を挙げたものだが、落合だけが突出している状況が明らかである。4カ村の工員数が生産数と比例していないが、これは荒木師との関係や村外からの出職が含まれていないことなどによるものと思われる。

 八木村ではおそらく明治になってから、太田川を挟んだ玖から伝わったものと思われるが、落合の玖や諸木が昭和30年代で廃業した後も20数年間、昭和年代いっぱいまで細々と続け、最後の幕引きの約を演じたのであった。八木の最後の所は後で述べることとして、材料のことに少し触れておきたい。
 
◎太田川の桐筏

 落合下駄は最初は雑木であったのが文政初年から桐が多く使われるようになったことは前に述べたが、その桐材の出所は時代によっていろいろある。まずは周辺の農山村から。さらに荷車、馬車などの時代にはこれも前述したように作木や、もっと県境を越えた地方からも仕入れていた。まずは太田川流域の桐は筏に組んで流してきた。筆者は以前にこの桐筏乗りから話を聞いたことがある。

 桐は他の樹種よりうんと軽いので筏の組み方が異なるところから自然に専業制となったようだ。旧安野村の船場にこの専業集団があった。栗栖管六さん(明治33生)は父親の逸次郎さんについて仕事をしたが、桐筏が盛んだったのは父親の時代までで、管六さんはその手伝いをした程度で筏の時代は終わったようだ。ともあれ、仕事は荷車にカズラと櫂とを積んで出発する所から始まる。一般の筏では大正時代には組むのにカズラをカンと呼ぶU字型の鉄材を打ちこむことで組んでいたが、桐にはカンは使えないので、カズラの量を多く必要とした。目的地までそのカズラを運ぶのが見習いの役目である。早朝、というよりも深夜1時〜2時頃に出発、昼頃に戸河内に着く。そこで筏を組むのだが、木の長さが一定なら組み易いが、そうでない。同じくらいの木を10本ほど一連とし、前の連の後ろに次の連の先を載せるようにしてゆく。全部で十連くらい付けるのだが、一か所で一度に十連にもなることは無いので、少し下って別の場所で付ける。上殿、西調子、堀、加計、澄合といった所が木の出ている場所だった。管六さんの記憶で一番大きかった桐は戸河内に目通り6尺の木があり、それを組むのに苦労したという。桐材はそれでなくても組むのに手間がかかるうえに、軽いために流れも悪い。途中で2〜3泊するようだった。見習いは先に荷車を曳いて帰り、次の用意として山に入ってカズラを集める。筏に乗るのは二人だが、うち一人は「乗り送り」で、毛木まで流すと筏を下り、それより先は一人が乗って行く。玖村か八木の浜に着いたら、たいていそこで一泊して帰ってくる。

 桐を伐るのは多くは秋であるから桐筏は秋から冬にかけてで、その他の季節は山仕事をしていた。
 

◎材料の選択と活用


 材料を地元に頼っていた時代から進んで、遠隔地からでも仕入れることが出来るようになると、品質の選択がされて高価なものと廉売品との差も拡がってくる。桐は寒冷地産のものが良く、特に会津若松産を筆頭に、南部産、越後産が良質とされた。これらの地域桐を買う場合は現地で段切りしてマクラにしたものを鉄道で送らせるようになった。

 サシ歯はホオ、カシ、ブナなどが多く使われていたが、ブナは消耗が早いため次第に消えていきカシ材が多くなった。また高性能の接着剤が使われるようになって従来は廃材にされた部分が活用されるようになる。天板の男物なら長さ8寸、横幅4寸5分、厚み4分の板を磨くところだが、2枚、3枚の貼り合わせ(天二、天三)で出来るし、コロも同様に貼り合わせたカンコロが一見マモノと見間違えるような製品となってきた。


←糸鋸で切り離しをしているところ(熊本工場)

八木・熊本工場の終焉


 落合の下駄工場が廃業した後も八木の下駄は暫くは続いたが、それも昭和の末年には終わりとなった。その少し前に工場の作業を撮影に行ったことがある。工場主の熊本弘さんは、明治期に玖村から技術を習って帰り、この八木で仕事を始めた山口五六とそれを継いだ岩崎平吉、熊本熊一に続く三代目だという。職人が6人もいた時期があったが、昭和50年頃には経営不振となった。注文がなくなり、年間生産2万足もあったのが2千足にまで減少したのである。

 熊本工場の機械は、平削盤、円盤鉋、丸鋸、糸鋸、コロ締付機、ハマ仕上機、穴明け機、メボ穴明け機、ローラーペーパー機、ハナ打機、経木貼締機、などの機械が置かれており(この内でコロ締付機と経木貼締機以外は全て電動式である)、まさに機械化された下駄造りの世界が見えた。

現代生活と下駄

 今、現代人の生活から下駄というものは存在価値を失ったのであろうか。「下駄箱」という言葉は残っていても、その下駄箱の中に下駄が置いてある家庭は少ないかもしれない。そんなことを思いながらあれこれと眺めていたら、1984年の中国新聞の「天風録」にこんなことが書いてあり、当時下駄離れしていく時流を心配する眼もあったことを感じた。

 「足の裏を見直す。足の裏を鍛える。頑丈な足の裏から身体と心の健康を得る。井原市の井原小学校が実践している”足の裏健康法”だ。足の裏が丈夫になれば、疲れない、身体が動かしやすくなる・・▲そんな足づくりの試みが中日新聞にも紹介されている。現代っ子の足は羽二重餅のよう。柔弱な足の子が小学校に上がると、朝会ですぐ倒れる。屋内に運んで骨折する・・柔弱から足を洗うには、まず履物から変える・・▲スクールバスの導入をかたくなに拒んでいる幼稚園がある。バスがないと子供を引き抜かれるが、それに幼稚園が耐える。子供は歩くことに耐える、健康は耐えて得られる」

 また同じ年の読売新聞の「編集手帳」にはこんなのもあります。

 「下駄は古い呼び名が足下・足板の音便からでた足駄だったという。次に古いのが木履(ぼくり)で、下駄は三番目だ。◆江戸時代に京阪神でまず足駄の呼称がすたれ、歯の高いのも低いのもひっくるめて下駄と呼ぶようになった。江戸では高いのが足駄、低いのが下駄と区別している。駄の字が履物一般に通用することになって、下にはくので下駄、茶席ではくのが席駄になった、と事典にある。◆元禄から享保にかけては、さまざまな華美な下駄が流行した。後には朱塗りのものなども現れ、寛延三年には禁令まで出たが効き目なかったらしい。◆先日の本紙に神戸市内の保育園が”下駄ばき保育”を続けているという記事があった。偏平足の園児に土踏まずができたという。」
 
幸田光温
 
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