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太田川聞き廻りの記

その四 川船の時代2 2006年12月 第68号

◎猿楽町の変遷 

 1997年7月23日の中国新聞では旧猿楽町の戸別地図を掲載した。原爆投下時の居住世帯を元住民やその遺族の協力を得て作成したという註が出ていた。下の図はその中の川寄りの一部分、原爆ドームと電車道の間の部分のみを取り出した図である。
 以前の本誌第34号でこの対岸の鍛冶屋町(現本川町)の戸別地図を載せたが、あれを調べた目的は船宿の位置を確かめる為で、船宿は鍛冶屋町には数軒あったことを聞いていたからである。ところがその対岸の猿楽町には伊勢吉という一軒だけだったというので、その位置を調べて関係者を捜し出し、聞き取りをした段階で終った。そこで今、この図を使って話させていただく。なお、ご覧の通りこの図は下が北、右が西と逆に書かれているのでご注意頂きたい。

 船宿「伊勢吉」のあった位置は線路に接したマルヤス運動具店の隣の石井写真館のある位置である。図の左の方に伊勢屋というのがあるが、これは全く別の店である。この伊勢屋さんは現在も近くに関係者が住んでおられることが判ったので筆者は大手町一丁目のお宅を訪ねて行ったことがある。ご主人のお話では、伊勢屋の代替りは、

 三蔵−寿三郎−松蔵−新一郎と続き、松寿堂という看板を上げており、電車通りで化粧品を商う一方で骨董屋もあっていた。戦後にデパートが台頭するまでは所謂勧商場になっていて、いろんな商売のある賑やかな町筋だった。

 一方、伊勢吉は最初から加計の船乗り相手の宿で、船の仕事がなくなる大正末年に廃業。建物は程なく人手に渡った。それまでのこの並びは伊勢吉だけでなく、

 マルヤス運動具店←岡崎塩問屋
 石井写真館←伊勢吉宿
 小川旅館←小田旅館(静男)
 金属回収←井上旅館
 川本商会←山田塩問屋

 上のようにそれぞれ右側の店が大正年代にあったのが、昭和初年にほぼ相前後して所有者が変わって左の方の店になっていったもののようである。この図では川辺の赤十字の建物との間が広く空いているが、そこにも建物があり、煙草屋などがあったという人もいる。

◎福間シズさんの話


 シズさんは明治33年生れで旧姓綿岡。伊勢吉さんの娘さんだった。そのお住まいを捜し当てて訪ねたのは25年前のことだが、当時は一人での生活。「息子が自分の方へ来て一緒に住めよと言うんですが、歳をとっても自分で働けるうちは一人暮らしが気楽なので」と市営住宅での質素な住まいを楽しむ様子だった。以下はそこで聞いたことの要約である。

 伊勢吉は二代続いた船宿で、先代は初め船渡しに関わる仕事だったが、相生橋が架かったことで仕事がなくなり、それから船宿に切り替え、名前を店の名にした。船は多くは冬の間だけ泊まって、夏は他方へ泊まったというが、伊勢吉に来る加計の船は一年中泊まっていたし、初めは数も多かったので十分採算がとれたのだろう。二代目も伊勢吉宿を継いだ。
この建物は三階建てで、玄関は川の方を向いており、裏はお城の堀側を向いていた。隣が岡崎塩問屋でその岡崎を鉤型に取り巻くような格好になっていた。一階の台所には大きな平釜が四つ据えてあって、大量の飯を炊いた。
入り口近くにはいつも上り荷が並べてあった。これは船頭が十日町や榎町を歩いて交渉してあった品物を、そこの店員が荷車で持ってきて置いてゆく。加計へ帰る船頭が朝早くに船に積んで行くのだが、宿の手数料も一個に幾らと取っていたようだ。
船頭の食事は一階、寝るのは二、三階だった。船頭は晩酌や肴などは自分が湯へ行った帰りに勝手に買って来るから、宿の方が心配することはないが、朝が早いのだけは主婦にとって大変だった。
家の裏の堀を電車道にするのに埋め立てが始まった時のことでよく記憶しているのは可愛そうな魚や亀のことだ。魚は近所の人が取って食べたのだろうが、亀はどうにもならないのでカマスに入れて寺町の誓願寺へ持って行った。毎日、何杯も持って行ったようだ。誓願寺さんも困ったのではないかと今頃思う。

 大正8年に私は結婚してこの家から出た。その2年後に父伊勢吉は亡くなり、それからは母のアイが一人で宿をしていた。何年までやったかは記憶にない。そのうちに船が来なくなったので廃業し、家は売ることになり、母も数年して亡くなった。しかし家の建物の方は「ピカ」で焼けるまでは建っていたことは確かだ。

(注・1997年の中国新聞7月23日の中に、マルヤス、石井写真館などの並びを北側から写して背後に産業奨励館が見える写真が出ており、1940年撮影との注がある。マルヤス点は三階の洋風建築に建て替わり、隣は石井写真館の大きな看板が上がっている。シズさんの記憶の時代はこれより一昔以前のこととなる。)
 

◎伊勢吉へ泊まった船頭の話


 加計組というのは加計から津浪までの範囲で、船の数は大正初年に63艘。その内で遅越や津浪の船は鍛冶屋町の伊賀井田で、加計の町なかの船、丁川、見入ヶ崎の船だけが伊勢吉へ泊まっていた。そこで関係の船頭、佐々木幸市さん(明治29生れ・見入ヶ崎)、佐々木常登さん(明治34生れ・丁川)。栗栖元六さん(明治36年・空条)の三人から聞いた話から伊勢吉宿のことを中心にまとめてみた。

 下りの船は前の日に荷を積んでおくから、朝は「しらしら明け」には出発。積み荷は炭がほとんどで、秋には栗や柿もある。広島に着くのは水の多い日は正午過ぎ、時には三時過ぎのこともある。問屋が既に交渉してある所に荷を降ろした後で、船頭の方は上り荷の注文のために市内の数軒を廻ってから矢倉の下の伊勢吉に入る。アトノリの方は船を洗って先に宿に入っている。夕方には2人で油屋町の銭湯に行き、帰りに酒と肴を買い、伊勢吉の女将に料理を頼む。晩飯はカンナギに残った飯を食べる。寝るのは部屋に敷かれたゴザの上で、寝具は船に積んで持ち運びする布団一枚をかけるだけだが、一日中船の上で水に濡れていた身体は火照って、冬でも特に寒いとは思わなかった。

 翌日は早朝に上り荷を積む。広島は前日に積んでおくと盗難のおそれがある為で、個人的に頼まれた荷は別として、加計の問屋の注文は組としての請け負いだから泊まっている船頭同士がクジを抽いて、皆が平等な荷重と運賃になるようにした。朝飯は宿が夜中に炊いた飯を食べ、弁当はカンナギに詰めさせたのを持って行くが、宿には弁当の米代と、宿で喰った分の米代との他に米一升分相当の賃金を支払った。

 伊勢吉の二代目は粂吉という名で、娘のシズが福間常太郎の元に嫁いで後亡くなった。伊勢吉宿の終わりが何年か明らかでないが、大正末年か?伊勢吉の廃業後も加計の船は数年は出ており、以後は横川の山本栄助(屋号山栄)へ泊まったり、寺町へ泊まったりしていた。時代の順序として車による運送がだんだん進むと、まず、上り荷の方が先に車に奪われ、さらに数年で下り荷が奪われ、上流の船から順番に姿を消す。栗栖さんが船を廃業したのは昭和4年だった。伊勢吉の廃業は船が来なくなる以前の、上り荷がなくなった事によるのかも知れない。上り荷の手数料という収入がなくなると加計の船だけの宿は痛手である。

 佐々木幸市さんは言う。上り荷がなくなると朝暗い中を荷を積み船を引いて登ることがなくなり、夏の間は川下の船と同じように昼頃に広島を出発して帆を揚げて帰るようになったので、楽になったと言えば言えるけど、広島行きに二泊三日もかけてきたわしらの暮らしは成り立たなくなった、と。 

(左の写真が前述の中国新聞掲載のもの。その後2002年8月6日に朝日新聞が特集として同資料を元にしたコンピューターグラフで二面分載せているが、それはかなり大まかで時代考証不足の所もあって説得力に欠ける。)
◎油木の船宿

 矢倉の下を早朝に出た加計の船の二泊目の宿は久地の野冠で、そこでも五軒ある宿の中で木下と内藤に分かれて泊まっていた。どこの船もそれぞれに常宿があるが、何らかの事情(自然条件や個人的な)によってそれが出来ない日は途中にある宿に泊まることもある。毛木や宇津や油木の宿である。油木の丸木は当時の家は現在残っていないが、天広マサコさん(大正6年生れ)に当時の話を聞いた。

 丸木は元々は布の人で、源太郎というのは村会議員もやっていたが、その弟の金助は布より少し川下になる油木にやってきて船に乗り、女房のスマに船宿をやらせていた。船の他に行商人も泊まっていた。このスマは22歳で金助と結婚して三人の男子と一人の女子を生んだが、その長男が位里であった。

 丸木の宿の隣が山田元平の米屋で、元平は鈴張から油木に出てきて米屋になった。本地や八重から運んでくる米をこの辺りの人に小売したり、近所の荷車引きが加計へ運んだりした。元平の子の札平の代に天広姓に変わったが、屋号は山田屋の侭で続けた。丸木の宿でもこの米を買っていた。丸木へ泊まる船頭の喰いぶちだけでなく、前を通る時に立ち寄って米を買っていく船もあった。

 余談になるが、丸木金助とスマの長男の位里(明治34生れ)は後に原爆の図を描いて広く知られているが、少年時代に金助と共に船に乗って出て、牛田の西本宿に泊まっていたこともある。スマは宿の仕事がなくなって後、隠居できるようになってから絵を描き始めた。学校に行っていないので字も書けないことから、子供に勧められて描くようになったというが、その個性的で愛情溢れた画風は注目を浴びた。昭和31年84歳で亡くなるまで描いた。一方の位里は古里を離れていても時々来て、飯室の寺院で屏風絵などを描いていた。

幸田光温
 
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