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太田川聞き廻りの記

その二 八木・中島 2006年10月 第66号


 前回は下流を高瀬まで上ったが今回は続いて八木・中島と行ってみよう。元の高瀬浜から2キロ川上(現在の高瀬堰のすぐ北)の川沿いに城山(じょうやま)と呼ぶ70m高さの小山があり、それを取り巻いた一帯が八木であるが(左の写真、船の背後)、この城山の北側は八木の中でも「一つ矢」と呼び古くは対岸の落合地区の飛び地であったらしい。
 
◎西本きぬよさんの話 (明治38年生れ)

 この一つ矢には「松田の浜」があっての、奥から来る船がここの浜で積んできた木を降ろす。向こうの玖村の浜へ持って行く船もありますがの、あっちもよけい下駄作りよるけえの。桐の木を筏に組んで流して来るものもありよった。松田は問屋で儀右衛門さんいうんがやりよっちゃった。儀右衛門さんは明治20年生れじゃゆうて聞いとったが、昭和20年代まではやりよっちゃった。その先代から続いとったんじゃないかの。下駄を作りよるんは、中本、松田、助信、岩崎、迫本いうような家で、その出来た下駄を松田浜から船に積んで広島へ出すのが竹内の船じゃった。竹内貞吉いうて下駄運搬の専属の船ようの。貞吉さんは明治17年生れゆうて聞いとったが、昭和10年までやっちゃった。その後は馬車で出すようになったけえやめちゃった。他にも船はあったよ。ここで船を持っとったのは、西本左十郎、西河内権兵衛、西室義夫、茅本左太郎、吉岡仙吉、増本高次、いうような人でその船は川向へ畠を持っとる人らが畑仕事に使う農用船だった。(西本きぬよさんの記憶力には驚きました)
 

◎太田川橋


 広島の町は別としてそれより川上の本流に橋が架かったのはここ八木と中島をつなぐ太田川橋が最初で、明治20年末であった。上の写真は明治37年に二代目の橋が完成し、両方の橋が並んで写っている珍しい資料である。郷土史研究者であった下野岩太氏が吉田の歴史研究者の小都勇二氏に見せてもらった写真で、元は小都氏の親戚の小都盛三氏の先代がこの橋の建設の責任者であり、完成記念に撮影されたものだという。太田川橋に関しては下野氏の著作「太田川ものがたり」などに詳しいのでここでは略すが、架け替えの年代は次のようになり、

 1、明治20年 長さ148m、幅3.6m
 2、明治37年 ほぼ同じ
 3、大正12年 長さ182m、幅7m
 4、昭和32年 長さ323m、幅8.8m
 5、昭和55年 長さ374.6m 幅10.8m

 4と5は現在並行してあり、5が40m川上側にある。

 なお、三代目はそのまま運ばれて三次の祝橋になっているのは周知のことと思う。
 

◎橋より上手を展望


 上の写真は太田川橋の東詰より100mほど川上の土手から北を眺めた風景である。

 Aは中島で奥から運んでくる物資を中継する市木や大本の店があった場所。
 Bは可部の浜から船通しを経て本流に出てきた位置。
 Cは細野の渡し場。八木用水の取水口のある十分一もこの場所にあった(現在の取水口はもっと上流の鳴になっている)。
 Dは河戸だが、この写真では右岸(写真では左側)の林の陰に隠れて見えない。
 

◎中島の問屋のこと


 中島(Aの位置)には市木と大本の二軒の問屋があった。この調査をした24年前、店の主人は両方とも既におられなかったが、その夫人は健在だったので当時の様子を聞くことができた。

 1、市木は馬吉・ヒサ夫婦がやっていたが、馬吉は昭和元年に亡くなった。この時、長男の真二郎はまだ13歳だった為、長女のヤエ(明治24年生れ)が店を継いだ。ヤエはこの時、山田寛に嫁いでいたのだが、店の名は市木のままで営業した。扱う品は山県郡・高田郡から馬車に積んでくる米、セメンダルの用材などで、ここから船に積み替えて米は広島本川筋の米屋へ、材木は江波の桐原工場へ運んだ。船は毎日10ハイくらいが活動していた。芸備線の鉄道がついてからは仕事が急に無くなり廃業となる。終わりは大正13年の洪水で建物全部が流された。この洪水では中島百軒のうち20軒が流される被害であった。

 2、大本店のこと

 大本は文之助の代に店を起こし二代目貫造(明治30〜昭和37年)に受け継がれた。中村ヤエは(明治33年生れ)この貫造に嫁いだ。店は市木より2軒おいて上手にあり、三階建てで下が馬小屋になっていた。材木が主で奥から運んできた用材は道路から下に落とす。下はレールをつけており、トロッコで運んで船に積んだり、筏に組んだりした。船は10ハイが活動していた。そのうちの3ハイは店の所有で、船頭を雇っていた。馬車も三台持っていた。事務員も一人雇っていた。大正13年の洪水で建物は流れたが更に建て替えて仕事は続けた。しかし昭和19年の洪水でまたも流され廃業となった。

 *Bの可部の浜については既に本誌41号に『川船物語・第7話』に少し書いているので。ここでは省くことにする。広島から可部の浜までの距離は近世の資料には「四里八丁」(17キロ弱)となっている。広島の計測基準点は元安橋東詰である。

 なお「帆待川」については触れておきたい。現在の帆待川は可部の浜からの堀とは全く別の場所から大川に合流しているが、芸藩通史の絵図などでは途中で堀川と合流して大川に出ている。また、帆待川の語源について、某誌には伝説として大昔に神武天皇が東征の折りこの地まで来て、さらに北上すべく風待ちをした所だと言ったことが書かれていた。これは全く皇国史観から作られた話であることは言うまでもない。実は帆待の地名は全国各地にあって。発生の理由は2つある。

 1は農民が荒れ地を開墾して米などを収穫した場合、その土地の収穫分には年貢を課さない制度。
 2は船乗りの収入は荷主の積み荷を目的地へ運んで、船一回分で幾らと計算されるが、その規定の積み荷の他に若干の余裕を空けておいて船乗りが個人で個人から委託された荷を加えて余分の稼ぎとする。これを帆待荷と言った。

 可部の場合は明らかでないが両方の可能性があるように思える。
 

◎細野のこと


 八木用水についてはこれも本誌発足の年の第3号で「八木用水を掘る」という話を書いているので、ここでは省く。渡し場のことも一昨年、本誌第8号『川船物語・渡し船』の中で渡し守笠岡三馬氏のことなど書いている。

 昨年、呉市に在住の人からラフカディオ・ハーンの研究をしているが、ハーンが松江から出てくる時のコースを辿ってみようと思っている。その中で可部の渡しの場所が分からないので・・という電話があった。それで後日案内して廻ったことがある。ハーンは可部まで人力車で来て、更にそれを船に乗せて渡ったのだという。

 太田川橋が架かるまでは可部から直接船で下る以外は、どうしてもここを渡らねばならなかった。400年の間、実に多くの歴史のドラマが此処で繰り広げられたことであろう。

 写真は細野側から対岸を見た風景で背景に高松山が見える。現在の川水は此処では極めて少ない。
 
◎造船所のこと

 細野には造船所があった。旧久地村追崎は船造りの盛んなところで、そこの小田家から分家した亀太郎が明治20年にこの地に出てきて造船所(船小屋と呼ぶ)を建て、その後長男の辰夫(明治26年生れ)が継いだ。辰夫の代で造船は終わり、昭和50年に辰夫の死後一家は対岸の中屋に移り住んだので船小屋は放置されていたが4年前に倒壊した。これは追崎の小田家船小屋に次いで古い建物だったが、惜しいことだった。写真は倒れる以前の姿。

 他にこのあたりで船造りをしていたのは中島の川見富吉がいた。川見は中島の川端、先に述べた問屋の大本家より少し川下で、船小屋が独立したものでなく、階下が仕事場になっていた。富吉は明治8年生れ、大正13年の洪水の年に亡くなった。長男の森人は追崎の小田造船の元へ習いに行っていたが、帰ってから自分で始めるまでに徴兵を受け外地で戦死した。

 現在はB地点のそば、中屋に唯一の現役の職人として川口悟氏が活動している。川口造船は飯室毛木にいたが昭和34年にこちらに移って現在に至っている。
  
聞き取り対象者

西本きぬよさん(一つ矢)(明治38年生れ)
山田ヤエさん(中島市木店)(明治24年生れ)
中村ヤエさん(中島大本店)(明治33年生れ)
小田カネさん(元細野)(明治36年生れ)

 文頭写真(帰帆)は大正時代の絵葉書より
 
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