太田川の伝説D 源三位頼政の後胤なり
  安芸太田町郷土史研究会会長 西藤義邦
2008年11月 第91号

 
頼政伝説

 「十町ばかりにして穴村の郷に至る、往年此所に権右衛門といへる豪富の農民あり、源三位頼政の後胤として、遍(あまね)く人の知る処なり」と、広島藩の絵師、岡岷山が『都志見往来日記』に記しています。

 源頼政は鵺(ぬえ)退治で知られた源氏の勇将ですが、平治の乱(1159)に平清盛に味方し、従三位に進み、翌年出家、「源三位入道」とよばれました。しかし治承四年(1180)以仁王を奉じて老いの身を平家打倒のために挙兵、源氏の世を見ることなく宇治で討ち死にした悲劇の人です。

 それが何故、遠い安芸山県の穴村と結びつくのでしょうか。今回はいわゆる「頼政伝説」が、地域にどんな伝説を派生させていったか、また、その多くを史実と見なしてきた、郷土史愛好家のやみがたい心情をたどってみましよう。

 穴村小田氏

 頼政の二男である山県二郎国政は、初め美濃国山県郡(現在の岐阜県南部)にいたが、父頼政敗死の後、安芸国へ配されて豊田郡小田村に逼塞(ひっそく)したと言います。

 そのうち、一族は郡名を姓としていたので、故地を偲んで「山県郡穴村」に移住を決意します。ところが当時、穴村は佐東郡であり、山県郡へ編入替えされたのは江戸初期のことですから、これは平仄(つじつま)が合わない話になります。しかしそこは、初めに山県郡の東部(北広島町壬生?)へ来て、しかる後に一部が穴村へ再移住したのだと説明されるのです。

 長禄元年(1457)、穴村は太田川右岸の津都見の「大津ノ瀬という所に、桧の大木を渡して人跡未踏の堤ヶ原を開拓した」のは、初めて小田を名乗った政季で、国政から数えて九代目とされています。近郷にも同系統があるので、以後「穴村小田氏」と呼称します。

 左衛門大夫

 穴の本郷に石垣の立派な館跡がありますが、近年までは二本の老松が立ち、築山の跡を今にとどめて「上穴の屋敷跡」と呼ばれてきました。

 口碑に戦国時代の天文十五年(1546)、小田左衛門大夫政秋という郷士が、毛利氏に仕えて武功あり、「穴村七十五貫文の地を拝領」して、ここに館を構えたと伝えています。

 「東は渡畑に、西は黒峠にのろし台をおいて」武器の鍛冶をもち、四十八棟もある広大な屋敷で、「石垣を築く時、人柱の代わりに雄雌二頭の黒馬を生き埋めにし、上にこの(夫婦)松を植えた」といいます。

 左衛門大夫は穴村小田氏の四代目ですが、吉和の「津田一揆」を戦い、さらに「太田・山里一揆」討伐にも加わり、毛利方である吉川氏に属して「吉和攻め」に働いたようです。この宗家は上穴と名乗りました。

 伝説の中の史実

 また、これに先立って佐伯郡の「和田一揆」を討ったと伝えているのは、守護の安芸武田氏に従っていた大永二年(1522)のことですが、この後も一族の者は秀吉の朝鮮出兵に次いで関ヶ原と、常に戦陣にありました。

 こうして武門の誉れを回復しながら、本拠を津都見から本郷に移した「穴村小田氏」は小領主としての地歩を占めていきます。

 一説に、左衛門大夫の二代後の弥左衛門政恒が「山県郡半分の代官職」を拝命とありますが、それを徴する資料はありません。

 のみならず、今まで見てきた穴村小田氏の近世以前の事跡についても、資料は皆無に近く、せいぜい「芸備郡中士筋者書出」に武田光和や毛利元就の書状と感状の数通が写されてある程度です。

 上穴と下穴

 なお、わずかに「芸備古跡志」や「国郡志」に記述があり、系図等も数種伝えられていますが、みな江戸時代に書かれたものです。

 つまり、中世の穴村小田氏の事跡の多くが断片的な伝説として存在して、それに郷土史研究の成果を重ねて語られる例が少なくありません。それは近世に移っても同様で、上穴・下穴に二家となった宗家の実像を求めて、先祖を同族と考える人などが地域史研究をにぎわしています。

 ここで、穴村小田氏の中興の祖をあげるならば、まず伝説に彩られた左衛門大夫、次いでは七代目となる上穴の弥左衛門政勝でしょう。

 政勝の事跡は江戸期初頭、たたら製鉄を創業して武家を脱したことに尽きますが、この一一族らしく仏法に熱心で、先に政秋が真宗に転じた正覚寺に財力と人材を送って、再建に力を尽くしています。

 栄枯常ならず

 信心は、藩の鉄師取締役を拝命するほどの大鉄師に成長した、三代続く「権右衛門時代」に引き継がれ、やがて「藝轍」の祖ともいうべき義鏡師を生んで、鷹埼八幡社の再建とともに穴村に光明をもたらしました。

 「西宗川の水が逆しに流れても上穴の財産はみてん(なくならん)」と、その隆盛ぶりをはやされたのはこの頃で、庄屋などの役務の多くを勤めた下穴と共に、穴村小田氏による発展は永劫のものに見えたのです。

 ところが、事業は享保の末年ころ突然に破綻、一世紀に及んだ「たたら」の火はあっけなく消えました。

 藩の絵師、岡岷山は、「その子孫保右衛門と言うて、今は微にして尋常の農民なり、昔の形を存するもの八築山ばかり也」「夫より百姓理藤太(下穴?)所に止宿す」と記してこの項を閉じています。

 
 
当ホームページ上の情報・画像等を許可なく複製、転用、販売などの二次利用をすることを固く禁じます。