写真・絵画で甦る太田川 

写真・絵画で甦る太田川 
(82)栗栖藤市さんのこと


 栗栖藤市さん(明治33年生)は加計の上調子の人、父親の弥吉、伯父の弥平、兄の辰次らと北(に船乗りで初めは滝山川と本流との合流点てある山崎で問屋をやっていた栗栖五市や河野泰三郎の品物を運んでいたが、ここ山崎は洪水の被害を受けて廃業したため、それからは丁川筋の問屋の物を運ぶようになった。しかし、それも時代の波で仕事が取れなくなってゆく。船乗りの中には筏に乗り換える人、荷車、荷馬車に転向する人も現れる。

 大正14年、穴村の人 数人が企画運営して飛行機のエンジンをつけ、プロペラで推進する観光船が丁川〜広島間に就航。ヒコウテイと呼ばれて注目を浴びたが、音がやたらと大きいのと、途中で着岸して客を乗せるのにエンジンを止めたりかけたりがうまくいかないで流される。等の問題から僅か2年で廃業。

 さらにジーゼルエンジンを載せてスクリューを回す船も現れたが、これは重量が大きく引揚げるのが重いため続かずに終わった。

 新式の船としては三番目に現れたのが船外機付きの客船で、その船頭を任されたのが栗栖藤市さんだった。この船外機を考案したのは古田静人という人物で、彼は当時新町の田村金物店にいて、後に広島に出て消火器、浄水器なども考案し町の発明家として新聞にも出たことがあったという。船外機は二つあって、もう一人丁川の佐々木元吉という船乗りが任された。栗栖さんはそれまで自分の乗っていた船を使い、朝の出発時に古田の所に寄って船外機を預かって丁川の浜へ行く。この機械は10センチ余りの大きさのプロペラ二枚が着いた担いで運べるもので、ガソリンの消費量は往復三升くらいだったようだ。

 毎日八時が出発時刻で、お客はそれまでに浜に来て待っている。加計丁川〜広島空鞘まで運賃70銭。途中でも待っている客がいるので、可部まで下ると多い日は20人も積んでいた。空鞆着は11時。荷物と違って人を運ぶのは積み降ろしの手間がかからないから楽である。昼飯を食べて少し休んで、12時前から帰途に就く。登りも瀬でない所ではエンジンを回して登るので五時には丁川に帰着した。

 この船はポッポ船と呼ばれていた。すでにバスは走ってはいたが、道路の状態やバスのクッションの悪さから揺れがひどかったようで、ポッポ船の方が楽だと言われ人気があった。しかし帰りの客を積めないのはどうにもできない川船の隘路である。三年で終った。

 船がなくなってからの栗栖さんは王泊ダム建設の工事人夫として働き、その後戦争が熾烈となってからは広島に出て市役所に勤務、と職を変えた。八月六日の原爆投下の日は市役所職員として建物疎問の指揮をしていて被爆、右腕にひどい火傷を負った。

 栗栖さんにはお宅を訪れて何度か話しを聞いたが、いろいろと時代の苦難を乗り越えてこれだけ明るく生き続けた人の姿が鮮烈なイメージとして今も残っている。
(幸田) 
 
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