写真・絵画で甦る太田川 

写真・絵画で甦る太田川 
(80)小越(おこえ)の紙漉き


 かって太田川流域で紙漉きの盛んだった所と言えば上殿であるが、三篠川上流域の各地でも紙を漉いていた。秋山、小越、石堂などが盛んだった。現在は広島市安佐北区白木町になっている地方で、上の写真は小越の永井家の楮蒸し場風景(写真は永井さん提供・昭和30年前後の撮影か)。以下は、永井勝さん(明治43年生)、シズエさん実正5年生)の夫婦から聞いたことの要約である。

 永井家の紙漉きは、勝さんの祖母モリ、母コハギと父助市、それに続く勝さん夫婦と三代続いていた。祖母以前からやっていたかどうかは分からない。原料の楮(コウゾ)は志路で買っていた。志路では畑のギシに生えている6尺位の長さのものを刈取り、共同で蒸して皮を干して置いてある。毎年12月に買いに行き荷車に5貫の束を6束くらい積んで持ち帰り、納屋に入れておく。毎年の買う量は200貫くらいだから、荷車で何度も往復した。蒸すのは1月になってからである。

 家の前の小川に一回分の楮の皮、約20貫目を漬け、水中に石で押さえて一晩おく。次に水気を取り、黒皮を包丁で剥ぎ、石灰を入れて煮る。(後には大竹でやっているのを習って、黒皮のままでカセイソーダを入れて煮るようになった)。上の写真はシズエさんがこの釜を炊いているところで、麻蒸しに使うような桶をかぶせている。昼過ぎに釜から出し、苗かごのような道具に入れて川まで運びスノコの箱の中で一晩水洗。黒い汁を流す。次の朝、楮を深さ2尺程のタンクに移し、カルキをバケツ一杯ほど入れ、―週間くらい漬けておいて時々混ぜる。白くなったら取り出して再び川の中で一晩置きアクを洗い流す。

 次に川から出して、叩き棒で叩く。これは昭和25年頃からビーターという叩き機械を使うようになった。たたいた後は瓶に入れて置き、それからが紙漉きの過程である。

 漉くのは「フネ」の中で、簀を敷いた「カセ」を使い行うが、これらは大工に作らせておく。瓶の中の楮を少しずつフネに入れ「卜ロロ」を混ぜる。これは最初は因島から入れたが、後には家の畑で作り、その根を叩いて卜ロロにする。これは温度が高いと効果がないので、寒い時期に漉くのである。

 20貫目を煮た1釜の楮は、毎朝6時から夕方7時まで漉いて1週間かかる。寒気の中の仕事は「ノコクソクド」で火を焚いて湯を沸かし、足元に火鉢を置いて暖をとっていても辛い仕事だった。漉き終わった紙は重ねておき、翌日の朝締めてから板に張って乾燥させる。乾かす張り板は40枚もあるので、途中で雨が降るととり入れるのに大変だった。また風の強い日には板から剥れた紙が山の方迄飛ばされることもしばしばあった。

 製品は百枚を1束とし、田植えが済んだ頃から9月頃迄の問に売りに行く。深川、福田から西条方面まで出かけていた。

 和紙が採算が取れなくなって、廃業したのは昭和35年だった。
 
 
(幸田光温) 
 
当ホームページ上の情報・画像等を許可なく複製、転用、販売などの二次利用をすることを固く禁じます。